『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』第1話
白い靴下のひと
水城真帆のことを「白い靴下のひと」だと意識するようになったのは、三か月ほど前のことだった。
真帆は経理部に勤める38歳の既婚女性だ。
仕事は正確で、声を荒らげることもない。誰かがミスをしても責めるのではなく、間違えた場所を静かに指で示す。そんな穏やかな性格もあって、社内では年齢や部署を問わず慕われていた。
営業部の三浦遼も、その一人だった。
遼は29歳。真帆より九つ年下で、仕事以外に特別な接点はない。
月末の経費精算や請求書の確認で話すことはあっても、交わす言葉はいつも数分だけだった。
それでも遼は、書類を抱えて廊下を歩く彼女の姿を、無意識に目で追ってしまう。
三か月前、コピー機の前で真帆が紙を落としたことがあった。
二人で床へ散らばった紙を拾ったとき、黒いパンプスと紺色のスカートの間に、白い靴下がのぞいていた。
飾りのない、ごく普通の白い靴下だった。
けれど、いつも隙なく整っている彼女の足元にある素朴な白さが、なぜか遼の記憶に残った。
それ以来、気づけば目に入るようになった。
細いリブの入ったもの。くるぶしを包む短いもの。そして、今日のような混じり気のない真っ白なもの。
もちろん、見ようとしているわけではない。
そう自分に言い聞かせるほど、かえって意識していることを認めるようで、遼は小さく息を吐いた。
「三浦さん。少しいいですか?」
顔を上げると、真帆が書類を手に立っていた。
「昨日提出してもらった交通費精算なんですけど、ここの金額だけ確認してもらえますか」
彼女が机の横から身を寄せ、伝票の一行を指差す。
ふわりと、清潔な石けんのような香りがした。
「すみません。たぶん入力を間違えました」
「大丈夫ですよ。今日中に直してもらえれば間に合いますから」
真帆はそう言って微笑んだ。
左手の薬指にある細い指輪が、窓から差し込む朝の光を反射した。
遼は急に後ろめたい気持ちになり、視線を伝票へ戻した。
彼女は既婚者だ。
自分が知っていていいのは、経理部の水城真帆だけだった。
午後六時四十分
夕方になると、窓の外を灰色の雲が覆い始めた。
天気予報では夜から雨になると言っていたが、予想より早く崩れそうだった。
午後六時を過ぎると、社員たちは次々と帰り支度を始めた。
遼は朝に指摘された精算書を直したあと、翌日の商談資料に取りかかっていた。
静かになったフロアに、キーボードを打つ音だけが残る。
ふと経理部の方を見ると、真帆もまだ席にいた。
机の上には何冊ものファイルが開かれ、モニターには細かな数字が並んでいる。
彼女は一度だけ肩を回すと、椅子の下でそっと片方のパンプスを脱いだ。
白い靴下に包まれた足先が、疲れを逃がすように静かに動く。
遼はすぐに画面へ視線を戻した。
見てはいけないものを見たわけではない。ただ靴を脱いだだけだ。
それなのに心臓がわずかに速くなったことが、ひどく情けなかった。
しばらくして、真帆が給湯室へ向かった。
戻ってきた彼女の手には、湯気の立つ紙コップが二つあった。
「三浦さん、コーヒー飲みますか?」
「いいんですか?」
「私のついでです。砂糖は入れていませんけど」
「ありがとうございます」
紙コップを受け取るとき、指先が触れそうになった。
真帆は何も気づかなかったように自分の席へ戻った。
遼だけが、その短い距離をいつまでも意識していた。
雨の予報
午後七時を回ったころ、窓ガラスに最初の雨粒が当たった。
一粒だった雨は、わずか数分で夜景をにじませる激しい雨へ変わった。
遼のスマートフォンに、利用している路線の遅延通知が届く。
顔を上げると、真帆もスマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示された短いメッセージを読んだあと、彼女の表情が一瞬だけ曇った。
だが遼と目が合うと、いつもの穏やかな顔に戻った。
「ずいぶん降ってきましたね」
「そうですね。水城さん、傘はありますか?」
「小さい折りたたみだけ。これだと駅までに濡れてしまいそう」
真帆は困ったように笑い、窓の外へ目を向けた。
遠くで雷が光った。
その直後、遼のスマートフォンが再び震えた。
今度は、電車の運転見合わせを知らせる通知だった。
「止まったみたいです」
「私の路線もです」
二人は同時に窓の外を見た。
オフィスには、もうほかの社員の姿はない。
聞こえるのは空調の低い音と、ガラスを強く叩く雨音だけだった。
真帆はしばらく黙っていたが、やがて机の上のファイルを閉じ、遼の方を向いた。
「三浦さん」
「はい」
「電車が動くまで、少しだけ仕事を手伝ってもらえませんか?」
彼女の足元には、脱いだ黒いパンプスが並んでいた。
そして白い靴下のまま立つ真帆が、遼の返事を待っていた。
「もちろんです」
そう答えた瞬間、窓の外で雷鳴が響いた。
この夜がいつもの残業では終わらないことを、そのときの遼はまだ知らなかった。
次回 第2話「雨の残業」
電車が止まり、誰もいないオフィスに残された真帆と遼。濡れたパンプスをきっかけに、二人の距離が少しずつ近づいていく。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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