香織さんが惣菜部門へ入ってから、一週間が過ぎた。
最初の数日は、売り場で顔を合わせても軽く会釈をするだけだった。
俺は品出し。
香織さんは惣菜。
同じスーパーで働いていても、担当が違えばゆっくり話す機会なんてほとんどない。
それでも、香織さんの姿はすぐに見つけられた。
淡い色のブラウスの上に、えんじ色のエプロン。
後ろでひとつにまとめた髪。
そして、足元の黒いスリッポン。
あの靴の中に、真っ白なリブ靴下が隠れている。
そう意識してしまってから、香織さんが通路を歩くたび、俺の目は勝手にその足元を追うようになっていた。
もちろん、見つめ続けるようなことはしない。
商品を並べながら、ほんの一瞬だけ。
すれ違うときに、ほんの一瞬だけ。
黒いスリッポンの履き口から白い生地がのぞいているのを確かめる。
それだけなのに、見つけるたび胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
土曜日の昼過ぎ。
惣菜売り場の混雑がようやく途切れたころ、俺は店長から休憩へ入るように言われた。
従業員用の休憩室へ向かうと、中にはまだ誰もいなかった。
壁際の自動販売機で缶コーヒーを買い、長机の端へ座る。
弁当のふたへ手をかけたとき、廊下から足音が近づいてきた。
扉が開き、香織さんが顔をのぞかせる。
「あら。悠真くんも休憩?」
初めて名前で呼ばれ、返事が一拍遅れた。
「はい。今からです」
「よかった。誰もいないと、まだ少し心細くて」
香織さんはそう言って、俺の斜め向かいの椅子へ腰を下ろした。
頭のネットを外し、まとめていた髪を指先で軽く整える。
惣菜の油と、彼女の柔らかな香りが、わずかに混じって届いた。
「今日は忙しいですね」
「土曜日ですから。でも、午前中よりは少し楽になりました」
そう答えながら、香織さんは肩を回した。
それから机の下へ目を落とし、小さく息を吐く。
「足も、少し休ませないと」
その言葉に、俺の手が止まった。
香織さんは右足のかかとを浮かせ、反対のつま先で黒いスリッポンの縁を押さえた。
するり、と足が靴から抜ける。
現れたのは、あの日と同じ真っ白な靴下だった。
足首を包む短めの丈。
柔らかな生地には細いリブ模様が入り、つま先からかかとまで、汚れひとつない。
続いて、左足も靴から抜かれる。
香織さんは二足のスリッポンを椅子の下へそろえ、白い靴下の両足を床へ下ろした。
薄い生地越しに、足の指がゆっくり開いて、また閉じる。
長い時間、窮屈な靴の中にいた足をほぐしているだけ。
分かっているのに、目をそらすまでに少し時間がかかった。
「この靴、まだ新しくて」
香織さんは右足を少し持ち上げ、白い靴下のかかとを手で包んだ。
「仕事が終わるころには、ここが痛くなるの」
親指が、靴下越しにかかとの丸みをゆっくり押している。
左手の薬指では、細い結婚指輪が蛍光灯の光を反射していた。
人妻。
その事実を示す小さな光と、無防備にさらされた白い足元。
両方が同時に視界へ入り、俺は逃げるように缶コーヒーへ手を伸ばした。
「悠真くんは、ここで長いの?」
「三年くらいです」
「じゃあ、私よりずっと先輩ね」
「先輩っていうほどじゃないですよ」
「でも、分からないことがあったら頼ってもいい?」
香織さんが微笑む。
「もちろんです」
「ありがとう。悠真くん」
二度目に名前を呼ばれた。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
香織さんは冷たい床の感触を確かめるように、白い靴下のつま先を前へ伸ばした。
長机の下で、俺の靴との距離が少しだけ近づく。
触れるほどではない。
けれど、足を動かせば届いてしまいそうな距離だった。
俺は弁当を食べながら、なるべく香織さんの顔だけを見るようにした。
話題は、商品の場所や閉店作業のこと。
どれも仕事の話ばかりだった。
それなのに机の下では、香織さんの白い足先がときどき動く。
足首を重ねたり、片方のつま先でもう片方のかかとをなぞったり。
そのたびに、視線を落としたい衝動をこらえなければならなかった。
休憩室の時計が、終了時刻の五分前を示した。
香織さんは名残惜しそうに息を吐く。
「そろそろ戻らないと」
「そうですね」
彼女は右足を持ち上げ、椅子の下にそろえたスリッポンへ近づけた。
白い靴下のつま先が、黒い履き口へゆっくり入っていく。
かかとまで収まると、今度は左足。
白い生地が少しずつ靴の中へ隠れていく。
最後に残った足首の白さを、俺はまた目で追ってしまった。
香織さんが立ち上がる。
俺も慌てて弁当の容器を片づけた。
先に扉へ向かった香織さんが、取っ手へ手をかけたまま振り返る。
穏やかな笑顔だった。
けれど、その目だけは、俺の反応を確かめるようにまっすぐこちらを見ていた。
「悠真くん」
「はい」
「白い靴下って、そんなに珍しい?」
一瞬、呼吸が止まった。
返事を探しているうちに、香織さんは小さく笑って扉を開けた。
「先に戻ってるね」
廊下へ消えていく黒いスリッポン。
その履き口には、真っ白なリブ靴下がまだわずかにのぞいていた。
俺の視線に、香織さんは気づいていた。
そう考えるだけで、残された休憩室の空気まで熱を持ったように感じられた。
次回 第3話「俺の視線を知っていた人妻」
白い靴下を見ていたことを、香織に気づかれてしまった悠真。謝ろうとする彼へ、香織は責めるどころか、誰にも聞かれない声で思いがけない言葉を告げる――。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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