残業後、彼女は白い靴下を脱いだ |最終話「朝まで言えなかったこと」

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最後の残業

月末最終日の朝。

水城真帆は、目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。

隣では夫が背を向けたまま眠っている。

真帆は音を立てないようにベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。

鏡の前で髪を整えながら、昨夜遼へ送った写真を思い出す。

新品の白い靴下を手にした自分の足元。

そして、今日それを履いていくと伝えたこと。

遼から届いた短い返事は、眠りにつくまで何度も読み返した。

『明日、近くで見せてください』

真帆は寝室へ戻り、クローゼットから紺色のスーツを取り出した。

白いブラウスへ袖を通し、スカートのファスナーを上げる。

最後に、昨夜用意しておいた白い靴下を手に取った。

履き口には、控えめな小さな飾りがついている。

真帆はベッドの端へ腰掛け、右足のつま先を白い生地へ入れた。

柔らかな靴下をかかとまで通し、足首へ向かってゆっくりと引き上げる。

左足にも同じように履き、両足をそろえて眺めた。

これまで仕事へ向かうために、何度も選んできた白。

遼の視線を意識するようになってからは、彼に見つけてもらうために選んできた白。

そして今夜、自分の本当の気持ちを伝えるために選んだ白だった。

黒いパンプスへ足を入れようとしたとき、左手の指輪が目に入った。

真帆の手が止まる。

夫がいるという事実は、どれだけ遼に惹かれても消えることはない。

これまで曖昧なまま胸の奥へ押し込めてきた迷いも、今夜は言葉にしなければならなかった。

それでも、遼への気持ちまで嘘にしたくはなかった。

真帆は指輪から目を離し、黒いパンプスを履いた。

会社へ着くと、遼はすでに席で月末資料を確認していた。

「おはようございます、水城さん」

「おはようございます、三浦さん」

いつもと同じ挨拶だった。

けれど真帆が彼の横を通り過ぎると、遼の視線が一度だけ足元へ落ちた。

席へ着いて間もなく、スマートフォンが震える。

『昨夜見せてもらった白ですね』

『分かりましたか?』

『ずっと覚えていました』

真帆は机の下で両足をそろえた。

『今夜、近くで見てください』

『はい』

『写真だけでは分からなかったことを、全部お話しします』

しばらく間を置いて、遼から返信が届いた。

『僕も、今まで言えなかったことを話します』

その日一日、二人はほとんど私的な言葉を交わさなかった。

締め作業に追われ、確認しなければならない数字が次々と届いた。

同僚がそばにいる間、二人は経理担当と資料担当として淡々と仕事を続けた。

それでも遼が書類を届けに来るたび、真帆はパンプスの中の白い靴下を意識した。

彼も同じ白を意識している。

そう思うだけで、長い一日が少しずつ特別な時間へ変わっていった。

午後八時を過ぎると、オフィスに残っていた人たちが帰り始めた。

「水城さん、三浦さん。お先に失礼します」

「お疲れさまでした」

真帆と遼は、それぞれの席から同僚を見送った。

午後九時を過ぎ、最後に残っていた課長も鞄を手に立ち上がった。

「二人とも、あまり遅くならないようにな」

「はい。最終確認が終わり次第、帰ります」

やがて入口の扉が閉まり、遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなった。

誰もいないオフィスに、パソコンの小さな動作音だけが残った。

真帆は顔を上げた。

少し離れた席で、遼もこちらを見ていた。

二人きりになった。

その事実を確かめるように、真帆は白い靴下を包むパンプスの中で、そっとつま先を動かした。

新しい白に込めたこと

午後十時十八分。

真帆は最後の数字を確認し、集計表の保存ボタンを押した。

「終わりました」

遼が椅子から立ち上がり、真帆の席へやって来た。

「お疲れさまでした」

「三浦さんも、お疲れさまでした」

仕事は終わった。

それなのに二人とも、帰るための準備を始めようとはしなかった。

真帆は遼を見上げた。

「少しだけ、待っていてもらえますか?」

「もちろんです」

真帆は立ち上がり、まだ点灯していたオフィスの照明を半分だけ消した。

窓際の応接スペースには、夜の街から届く淡い光が差し込んでいる。

二人は向かい合うように、低いソファへ腰掛けた。

遼との間には、小さなテーブル一つ分の距離があった。

「昨夜、この靴下を見せたときの約束を覚えていますか?」

「近くで見るという約束ですね」

「それだけではありません」

真帆は膝の上で両手を重ねた。

「私が本当に望んでいることを、遼さんに話すという約束です」

遼は急かさず、真帆の次の言葉を待っていた。

その優しさに触れるたび、真帆は彼へ惹かれてきた。

けれど今夜は、その優しさの後ろへ隠れたくなかった。

真帆は右足を少し後ろへ引き、黒いパンプスのかかとへ指をかけた。

静かな音とともに靴が脱げる。

新しい白い靴下に包まれた足が、夜のオフィスに現れた。

真帆はその足を、遼から見える位置へゆっくりと置いた。

「これが、あなたに見せたかった白です」

遼は足元を見つめたあと、すぐに真帆の顔へ視線を戻した。

「写真で見たときより、ずっときれいです」

「靴下が、ですか?」

「それを履いて、僕の前へ来てくれた真帆さんがです」

胸の奥へ、彼の言葉が静かに染み込んでいった。

真帆は右足を少し持ち上げた。

「触れてもらえますか?」

「本当にいいんですか?」

「今夜は、私からお願いしたいんです」

遼はソファから立ち、真帆の前でゆっくりと膝を曲げた。

差し出された手のひらへ、真帆は白い靴下のかかとを預けた。

柔らかな生地越しに、知っている温かさが伝わってくる。

資料室で初めて触れられたときと同じ手だった。

けれど今夜の真帆は、あのときのように震えているだけではなかった。

自分からつま先を伸ばし、遼の手へ白い靴下を重ねた。

遼の指が、履き口の小さな飾りへそっと触れる。

「この白を選ぶとき、何を考えていたんですか?」

「遼さんのことです」

真帆は迷わず答えた。

「写真を送ったときも、今朝これを履いたときも、あなたがどんな顔で見てくれるのか考えていました」

「僕のために選んでくれたんですね」

「はい」

遼の親指が、白い靴下の上から足の甲を優しくなぞった。

真帆は目を閉じ、その手の動きを受け入れた。

「毎朝、遼さんのために白い靴下を選ぶのが嬉しかったんです」

「真帆さん……」

「会社であなたの視線に気づくたび、今日も履いてきてよかったと思いました」

真帆は目を開き、遼を見つめた。

「でも、嬉しくなるほど怖くなりました」

遼の手が止まる。

「夫がいるのに、あなたに会う朝を待っている自分が怖かったんです」

それは真帆が、ずっと胸の奥へ隠してきた言葉だった。

「この気持ちを認めたら、今までの生活へ戻れなくなる気がしました」

「無理に答えを出す必要はありません」

「そう言ってくれると思っていました」

真帆は小さくほほ笑んだ。

「遼さんはいつも、私が逃げられる場所を残してくれます」

「真帆さんを困らせたくないんです」

「分かっています」

真帆は彼の手の中で、白い靴下のつま先をわずかに動かした。

「でも今夜だけは、逃げられる場所を残さないでください」

白の奥に隠していた気持ち

遼は真帆の足を支えたまま、しばらく何も言わなかった。

やがて、彼は白い靴下へ向けていた視線を上げた。

「僕も、お話ししていいですか?」

「聞かせてください」

「初めは、真帆さんの白い靴下が気になっていました」

真帆は恥ずかしそうに目を伏せた。

「いつもきれいに履いていて、パンプスから見える白が真帆さんらしいと思ったんです」

遼の指が、真帆のかかとを包む。

「でも、好きになったのは靴下だけではありません」

真帆はゆっくりと顔を上げた。

「忙しいときでも周りへ声をかけるところも、誰も見ていない書類まで丁寧にそろえるところも、少し疲れると温かい飲み物を両手で持つところも」

遼は一つずつ、思い出すように言葉を続けた。

「僕が見ていたのは、ずっと真帆さんでした」

胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていく。

真帆の目に涙が浮かんだ。

「白い靴下を履いていない私でも、見てくれますか?」

「もちろんです」

「迷っている私でも?」

「それも真帆さんです」

「すぐに何も決められない私でも?」

「急がせるつもりはありません」

遼は迷いなく答えた。

「ただ、僕の気持ちだけは嘘にしたくありません」

「私もです」

真帆の頬を涙が一筋だけ伝った。

「今夜ここで話したことも、あなたを求めたことも、なかったことにはしたくありません」

遼は白い靴下を履いた足を、壊れやすいもののように優しく支えていた。

「真帆さんが選ぶ答えを待ちます」

「待たせてしまうかもしれません」

「それでも待ちます」

その言葉を聞いたとき、真帆はようやく決めた。

今まで白い靴下の奥へ隠していた自分を、彼に見せようと。

真帆は右手を足首へ伸ばした。

指先が、白い靴下の履き口にある小さな飾りへ触れる。

「遼さん」

「はい」

「この靴下を履いた私を、ずっと見てくれましたね」

「はい」

「だから今度は、この白の奥に隠れていた私を見てください」

白い靴下を脱いだ夜

真帆は履き口へ指をかけ、白い靴下をゆっくりと下ろし始めた。

小さな飾りが足首を通り、柔らかな生地が少しずつ重なっていく。

昨日までなら、恥ずかしさに耐えられず手を止めていたかもしれない。

けれど今夜は、遼から目をそらさなかった。

白い生地がかかとを越え、最後につま先から静かに離れた。

真帆の手の中に、脱いだばかりの白い靴下が残る。

真帆はついに、彼の前で白い靴下を脱いだ。

遼は何も言わず、真帆の表情を見つめていた。

その視線が嬉しかった。

白い靴下だけではなく、その向こうにいる自分を見てくれている。

真帆は手の中の白い靴下を丁寧にたたみ、遼へ差し出した。

「少しだけ、預かっていてもらえますか?」

遼は両手で受け取った。

「大切に預かります」

「それは、あなたに会うために選んだ白です」

遼は白い靴下を胸元へ近づけるのではなく、手のひらの上で大事そうに包んだ。

その扱い方が、真帆には何より嬉しかった。

「遼さん」

「はい」

「今度は、私に触れてください」

遼は脱いだ靴下をテーブルへ静かに置いた。

そして、真帆へ向けて右手を差し出した。

真帆はその手を取り、自分の頬へ導いた。

温かな手のひらに頬を預ける。

資料室で足へ触れた手。

何度も自分を気遣い、立ち止まってくれた手だった。

「真帆さん」

初めて職場の名字ではなく、名前だけで呼ばれた。

真帆の胸が強く鳴る。

「もう一度、呼んでください」

「真帆さん」

真帆は遼の手へ自分の指を重ねた。

「今夜だけは、水城さんではなく、真帆としてそばにいてもいいですか?」

「僕も、三浦ではなく遼として、そばにいたいです」

遼が立ち上がる。

向かい合った二人の間から、テーブル一つ分あった距離がなくなった。

真帆は遼の胸元へ手を置いた。

彼の鼓動が、手のひらへ伝わってくる。

遼も緊張している。

それを知った途端、真帆の迷いが少しだけ消えた。

「触れてもいいですか?」

今度は遼が尋ねた。

真帆は小さくうなずいた。

遼の腕が、真帆の背中へゆっくりと回る。

強く奪うのではなく、いつでも離れられるほど優しい抱擁だった。

けれど真帆は離れなかった。

自分から一歩近づき、彼の胸へ頬を寄せた。

「遼さんの音が聞こえます」

「真帆さんの音も聞こえています」

二人はしばらく、言葉を交わさずに抱き合っていた。

窓の外では、遅い時間の電車が光の筋を残して走っていく。

誰もいないオフィスで、真帆は初めて遼の胸へすべてを預けた。

やがて顔を上げると、遼の瞳がすぐ近くにあった。

「キスをしてもいいですか?」

真帆は答える代わりに、遼のシャツを指先でそっとつかんだ。

そして、自分から目を閉じた。

遼の唇が、ためらうように真帆の唇へ触れた。

ほんの一瞬だけの、静かな口づけだった。

唇が離れると、真帆は目を開いた。

「もう一度……」

今度は真帆から、遼との距離をなくした。

二度目の口づけは、最初より少し長かった。

それでも遼は、真帆を急がせようとはしない。

真帆の気持ちを確かめるように、背中へ回した腕で優しく支えていた。

やがて唇が離れたあとも、二人の額は触れ合ったままだった。

テーブルの上には、真帆が脱いだ白い靴下が置かれている。

その白だけが、今夜二人の間に起きたことを静かに見守っていた。

朝まで言えなかったこと

日付が変わっても、二人はすぐにはオフィスを出なかった。

真帆は再びソファへ座り、遼は自動販売機で買った温かい飲み物を二つ持って戻ってきた。

窓の外を眺めながら、二人は今まで話せなかったことを一つずつ語った。

遼が初めて真帆の白い靴下へ気づいた日のこと。

真帆が初めて彼の視線を意識した日のこと。

残業のたびに近づきながら、どちらも言葉にできなかったこと。

真帆は夫との関係についても、飾らずに話した。

すでに長い間、同じ家で別々の時間を過ごしていること。

それでも、今ある生活を簡単に壊せるわけではないこと。

遼は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。

「すぐに答えは出せません」

「分かっています」

「でも、遼さんへの気持ちを隠したまま夫のところへ戻ることも、もうできません」

真帆は左手の指輪を見つめた。

「自分の人生をどうしたいのか、きちんと考えて話します」

「僕のために急がないでください」

「あなたのためだけではありません」

真帆は遼を見つめ、静かにほほ笑んだ。

「私自身が、もう自分の気持ちから逃げたくないんです」

遼は何も求めず、ただうなずいた。

そのあと二人は、窓際へ並んで座った。

片方だけ白い靴下を履いた真帆の足元には、脱いだ黒いパンプスが置かれている。

右足から脱いだ白い靴下は、遼の手で丁寧にたたまれたままテーブルにあった。

夜が深くなるにつれ、外を走る車の数が減っていく。

午前四時を過ぎるころ、東の空がわずかに明るくなり始めた。

窓ガラスに、寄り添って座る二人の姿が映っている。

もうすぐ朝になる。

それでも真帆には、まだ言えていない言葉があった。

何度も喉元まで上がりながら、怖くなって飲み込んできた言葉だった。

遼が立ち上がり、テーブルの白い靴下を手に取った。

「そろそろ帰りましょうか」

「はい」

真帆は返事をしたものの、すぐには立ち上がれなかった。

このまま靴下を履き、会社を出れば、また名字で呼び合う二人へ戻ってしまう気がした。

「遼さん」

「はい」

「最後に、一つだけ聞いてください」

真帆は椅子から立ち上がった。

そして朝の光が差し始めた窓の前で、遼と向き合った。

「私は、あなたが好きです」

ようやく言えた。

夜が始まったときには言えなかった言葉を、朝になる直前に初めて口にした。

「白い靴下を見てくれたからではありません」

真帆の声は震えていた。

「私の迷いも、弱さも、全部待っていてくれた遼さんが好きです」

遼は一歩近づいた。

「僕も真帆さんが好きです」

「後悔しませんか?」

「しません」

「待つことになっても?」

「待ちます」

遼は手にしていた白い靴下を見つめた。

「これを履かせてもいいですか?」

真帆は涙を浮かべながら、うなずいた。

ソファへ腰掛け、右足を遼へ差し出す。

遼は白い靴下の履き口を両手で広げた。

真帆がつま先を入れると、柔らかな生地を少しずつ引き上げていく。

かかとの位置を丁寧に合わせ、最後に履き口の小さな飾りを整えた。

昨夜、真帆自身の手で脱いだ白い靴下。

朝になり、今度は遼の手で再び履かせてもらった。

「きれいに履けていますか?」

「はい。今までで一番きれいです」

遼は床に置かれていた黒いパンプスも手に取った。

真帆が白い靴下を履いた足を入れると、かかとが収まるまで静かに支える。

白い生地の大部分が、再び黒い靴の中へ隠れた。

けれど真帆は、もう自分の気持ちまで隠そうとは思わなかった。

白を選ぶ朝

二人は仕事の痕跡を確認し、パソコンの電源を落とした。

夜を照らしていたオフィスの明かりも、一つずつ消していく。

入口の扉を開けると、朝のひんやりとした空気が頬へ触れた。

駅へ向かう道を、真帆と遼は少しだけ距離を空けて歩いた。

まだ二人の関係を誰かへ話すことはできない。

解決しなければならないことも残っている。

それでも昨夜までの二人とは違っていた。

信号の前で立ち止まると、遼が真帆の足元を一度だけ見た。

黒いパンプスの縁から、新しい白い靴下がのぞいている。

「今日も、白ですね」

「はい」

「僕のために選んでくれた白ですか?」

真帆は少し考えたあと、朝の光の中でほほ笑んだ。

「昨日までは、そうでした」

「今日は違うんですか?」

「今日は、私自身のためでもあります」

遼は答えを聞き、嬉しそうにうなずいた。

信号が青へ変わる。

二人は再び歩き始めた。

駅の入口で別れる直前、真帆は小さな声で遼を呼び止めた。

「次に二人きりになれたときも、白い靴下を履いてきていいですか?」

「真帆さんが履きたいと思う白を選んでください」

「それを遼さんに見てほしいです」

「大切に見ます」

以前にも、二人の間で似た言葉を交わしたことがあった。

けれど今朝は、その意味がまったく違って聞こえた。

真帆は遼へ背を向け、駅の階段を上り始めた。

黒いパンプスと白い靴下が、朝の光の中を一段ずつ進んでいく。

昨夜、真帆は初めて遼の前で白い靴下を脱いだ。

それは何かを失うためではなかった。

白の奥へ隠してきた本当の自分を、彼へ見つけてもらうためだった。

そして再び履いたその白は、秘密を隠すためのものではない。

自分の心から、もう逃げないと決めた証だった。

真帆は白い靴下を脱いだ夜を、もう後悔していなかった。


『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』完

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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