「白い靴下って、そんなに珍しい?」
香織さんにそう聞かれた日から、俺は彼女の足元を見られなくなった。
正確には、見ないようにしていた。
売り場ですれ違っても、顔だけを見る。
惣菜の商品を棚へ並べに来ても、黒いスリッポンには目を向けない。
休憩時間が重なりそうになれば、わざと数分遅れて休憩室へ入った。
香織さんに嫌われたくなかった。
気味の悪い男だと思われるくらいなら、もう白い靴下を見ないほうがいい。
そう決めたはずだった。
けれど、意識して見ないようにするほど、俺は香織さんの足元を考えてしまった。
黒いスリッポンの中に隠れた、真っ白なリブ靴下。
休憩室の床へ下ろされた両足。
柔らかな生地越しに、ゆっくり動いていたつま先。
そして、扉の前で俺を見つめた香織さんの目。
あの問いが、ただの冗談だったのか。
それとも、本当に俺の視線に気づいていたのか。
答えが分からないまま、三日が過ぎた。
四日目の夕方。
俺が飲料売り場で段ボールを片づけていると、背後から名前を呼ばれた。
「悠真くん」
振り返ると、惣菜部門のエプロンを着けた香織さんが立っていた。
「少し、手伝ってもらってもいい?」
香織さんの足元には、空になった大きな容器が二つ重ねられている。
「これをバックヤードへ戻したいんだけど、私一人だと持ちにくくて」
「分かりました」
俺は容器を持ち上げ、香織さんの後ろを歩いた。
売り場から従業員用の扉を抜ける。
細い通路には、店内放送と冷蔵設備の低い音だけが響いていた。
香織さんの黒いスリッポンが、俺の少し前を進んでいく。
履き口から、真っ白な靴下がのぞいていた。
見ないようにしても、視界へ入ってしまう。
俺は慌てて、抱えている容器へ目を落とした。
バックヤードの棚へ容器を置くと、香織さんが小さく息を吐いた。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ」
俺はすぐ売り場へ戻ろうとした。
けれど、香織さんは通路の前から動かなかった。
「悠真くん、この前のこと、気にしてる?」
胸の奥が強く鳴った。
「この前……ですか?」
「休憩室で聞いたこと」
香織さんは俺の顔を見ながら、少し困ったように笑った。
「あれから、私のことを避けてるでしょう?」
「避けてるわけじゃ……」
否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
香織さんの穏やかな目を見ていると、嘘をつけなかった。
「すみません」
「どうして謝るの?」
「俺……見てたから」
香織さんは何も言わなかった。
俺は覚悟を決め、続けた。
「香織さんが休憩室で靴を脱いだとき、白い靴下を見てました」
「うん」
「最初に履き替えた日も」
「知ってる」
あまりに静かな返事だった。
俺は顔を上げた。
香織さんは怒っていなかった。
むしろ、俺がその言葉を口にするのを待っていたように見えた。
「知ってたんですか?」
「最初の日から、なんとなく」
香織さんが一歩、俺へ近づいた。
「悠真くん、目をそらすのが少し遅かったから」
恥ずかしさで、顔が熱くなる。
「本当にすみません」
「だから、謝らなくてもいいの」
香織さんの声が、少しだけ柔らかくなった。
「嫌だったら、あの日、悠真くんの前で両方の靴を脱いだりしないでしょう?」
その意味を理解するまで、数秒かかった。
「じゃあ……」
「少しくらいなら、見られても嫌じゃなかった」
香織さんはそう言うと、恥ずかしそうに目を伏せた。
左手の薬指で、細い結婚指輪が光っている。
人妻である香織さんが、夫ではない俺に見られることを意識していた。
その事実が、俺の胸を激しく揺らした。
「家ではね」
香織さんが、ぽつりと言った。
「私がどんな服を着ても、どんな靴下を履いても、誰も気づかないの」
少し寂しそうな笑顔だった。
「だから、悠真くんが見ていることに気づいたとき……驚いたけど、少し嬉しかった」
何と答えればいいのか分からなかった。
ただ、香織さんから目をそらすことだけはできなかった。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「悠真くんは、白い靴下が好きなの?」
もう、ごまかせなかった。
「好きです」
口にした瞬間、体の奥まで熱くなった。
「香織さんが履いている白い靴下を、いつも見てました」
香織さんの頬が、わずかに赤くなる。
「私が履いているから?」
「それもあります」
「それも?」
「白い靴下そのものも好きです。でも、香織さんが履いていると……もっと気になります」
香織さんは視線を落とした。
黒いスリッポンの履き口から、細いリブ模様が見えている。
「そんなふうに言われたの、初めて」
彼女は右足のかかとを、ほんの少しだけ靴から浮かせた。
白い靴下に包まれたかかとが、黒い履き口の上へ現れる。
俺の目が動いたことを、香織さんは見逃さなかった。
「やっぱり、見るのね」
「すみません」
「また謝った」
香織さんが、声を立てずに笑った。
そのまま右足を靴へ戻す。
「今日も白ですよ」
耳元で秘密を打ち明けるような声だった。
売り場へ続く扉の向こうから、人の話し声が近づいてくる。
香織さんは俺から少し離れ、いつもの仕事中の表情へ戻った。
「そろそろ戻りましょう」
「はい」
香織さんが扉へ手をかける。
だが、開ける直前に振り返った。
「悠真くん。次の金曜日、閉店作業でしょう?」
「そうですけど」
「私もなの」
胸が、もう一度大きく鳴った。
「店長から、バックヤードの片づけを二人でお願いって言われたわ」
「二人で……」
「閉店したあとなら、誰も見ていないから」
香織さんは黒いスリッポンを一度見下ろし、それから俺を見た。
「今度は、そんなに慌てて目をそらさなくてもいいよ」
扉が開く。
香織さんは何事もなかったように、明るい売り場へ戻っていった。
俺だけが薄暗い通路に残される。
次の金曜日。
閉店後、二人きりのバックヤード。
その言葉を考えただけで、心臓の音が止まらなくなった。
次回 第4話「閉店後、二人きりのバックヤード」
香織が自分の視線を嫌がっていなかったと知った悠真。迎えた金曜日、最後の客が帰ったスーパーで、二人は閉店後のバックヤードへ残される。誰もいないことを確かめた香織は、悠真の目の前で黒いスリッポンへ手を伸ばす――。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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