閉店後、人妻パートの白い靴下に触れた|第11話「夫が帰る朝まで、白い靴下のまま」

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「朝まで、あと六時間しかないわ」

香織さんの声が、静かなリビングに響いた。

スマートフォンの画面には、夫から届いたメッセージが残っている。

『明日の予定が変わった。朝一番の電車で帰ることになったよ』

俺は時計を見た。

午前零時を少し過ぎたところだった。

「六時間しかないんじゃありません」

「え?」

「まだ六時間もあります」

香織さんが俺を見る。

「帰らないの?」

「帰ってほしいんですか」

「帰ってほしくない。でも、夫に見つかったら……」

「その前に帰ります」

「本当に?」

「ご主人が帰るまでには、必ず」

俺が答えると、香織さんは胸の前で両手を握った。

安心したようにも、寂しそうにも見えた。

リビングには、俺たちが過ごした時間の痕跡が残されている。

ソファから落ちたクッション。

テーブルに置かれた二つのマグカップ。

無造作に脱いだ俺の上着。

少し位置のずれた夫婦の写真。

そして、白いリブソックスを履いたままの香織さん。

「まず、片づけましょう」

俺が立ち上がると、香織さんも慌ててソファから下りた。

白い靴下の両足が床へ着く。

仕事中から履いている生地には細かな皺が刻まれ、足首の部分が少しだけずれていた。

「その靴下も、履き替えた方がいいんじゃないですか」

「どうして?」

「俺が触った跡が残っています」

香織さんは自分の足元を見つめた。

「夫には分からないわ」

「でも、ご主人が触れたら」

その言葉に、香織さんの表情が揺れる。

しばらく黙ったあと、彼女は両足を揃えた。

「それでも、今は脱ぎたくないの」

「怖くないんですか」

「怖いわ。でも、あなたが帰ったあとまで、今夜のことを残しておきたい」

白い靴下のつま先が、俺の足へそっと触れた。

「夫が帰ってくる直前まで、このままでいたいの」

香織さんは自分の夫を裏切っている。

俺も、その裏切りに加わっている。

分かっているのに、白い靴下越しに伝わる彼女の温度を拒むことができなかった。

俺たちは黙って部屋を片づけ始めた。

クッションを元の場所へ戻す。

俺の上着と鞄を玄関近くへ移す。

夫婦の写真を、棚に残った埃の跡へ重なるように置き直す。

二つのマグカップを台所へ運んだ。

「俺が洗います」

「いいわ。座っていて」

香織さんは袖をまくり、流し台の前に立った。

水の音がする。

白い靴下の足で台所に立つ後ろ姿は、どこにでもいる普通の妻に見えた。

数時間後に夫が帰ってくれば、彼女はまたこの場所で朝食を用意するのだろう。

けれど今、洗っているのは夫のものではない。

自分と、夫ではない男が使った二つのマグカップだった。

「香織さん」

「なに?」

「ご主人に会ったら、どんな顔をするんですか」

水の音が止まる。

香織さんは振り返らなかった。

「いつもの顔をするわ」

「いつもの妻に戻るんですね」

「戻らないといけないでしょう」

「今夜のことも忘れて?」

「忘れられると思う?」

香織さんが蛇口を閉め、ようやく俺を見た。

「この白い靴下を見るたびに、思い出すわ」

洗い終えたマグカップを布巾で拭く。

一つは棚へ戻された。

もう一つも戻そうとして、香織さんの手が止まった。

「それ、俺が使った方ですよね」

「ええ」

「どうしたんですか」

「同じ場所へ戻したら、夫が使うかもしれない」

「洗ったんだから、分からないでしょう」

「分かっているけど……今は嫌なの」

香織さんは俺が使ったマグカップを、棚の奥へ隠すように置いた。

それからリビングへ戻り、ソファへ腰を下ろす。

「片づけは終わりました」

「まだ一つ残っているわ」

「何ですか」

香織さんは自分の隣を指さした。

「悠真君との時間」

俺が座ると、香織さんは身体を寄せてきた。

頭が肩へ載せられる。

白い靴下の両足がソファへ上げられ、俺の腿へ重なった。

「さっきまで、あと六時間しかないと思っていたの」

「今は?」

「六時間も一緒にいられると思っている」

「俺と同じですね」

「悪いことばかり、似てしまうのね」

香織さんが小さく笑う。

けれど、その笑顔はすぐに消えた。

「悠真君は、私とどうなりたいの?」

突然の問いに、答えが出なかった。

「今夜だけじゃ嫌です」

「それなら、いつまで続けるの?」

「分かりません」

「夫と別れてほしい?」

白い靴下のつま先に力が入る。

俺はその足を両手で包んだ。

「今すぐ、そんなことは言えません」

「どうして?」

「ご主人と会ったからです」

夫の手の温かさを思い出す。

香織さんのことを心配し、雨が降りそうな夜に迎えへ来た男。

その夫と別れてほしいと、簡単に言うことなどできなかった。

「優しいのね」

「違います。怖いだけです」

「何が?」

「香織さんが俺を選んだあと、後悔することが」

香織さんは長い間、何も言わなかった。

やがて、白い靴下の両足を俺の手から抜き、床へ下ろした。

嫌われたのかと思った。

しかし彼女は俺の前へ膝をつき、両腕を背中へ回した。

「今は、選べないわ」

耳元で声がする。

「でも、あなたを失いたくない」

俺も香織さんを抱き締めた。

「それは、ずるいですよ」

「分かっている」

「ご主人も失いたくないんでしょう」

「ええ」

「俺も失いたくない?」

「失いたくない」

香織さんの声が震えていた。

答えを出せないまま、俺たちは長い時間抱き合っていた。

午前三時を過ぎた頃、香織さんは俺の肩へ頭を預けたまま眠ってしまった。

俺もいつの間にか目を閉じていた。

短い眠りから目を覚ますと、部屋のカーテンが薄い青色に変わり始めている。

時計は午前五時二十分を示していた。

俺の腿には、香織さんの白い靴下の両足が載ったままだった。

彼女はソファへ身体を預け、静かな寝息を立てている。

乱れた白いリブ生地。

足首に残った細かな皺。

一晩中、俺だけが見て触れていた白い靴下。

あと数時間もすれば、その足は夫の前を歩く。

「香織さん」

肩を揺らすと、香織さんがゆっくり目を開けた。

「何時?」

「五時二十分です」

香織さんの顔から眠気が消える。

「もう帰らないと」

「はい」

俺が立ち上がると、腿から白い靴下の両足が離れた。

その温度が消えていくことが、思っていた以上に寂しかった。

香織さんは洗面所へ行き、髪と服装を整えた。

戻ってきた彼女は、白い靴下だけを履き替えていなかった。

「本当に、そのままでご主人を迎えるんですか」

「ええ」

「俺が触った靴下ですよ」

「だから、このままがいいの」

香織さんは足元を見ながら答えた。

「夫の前で普通にしていられるか、自分でも分からない。でも、この白い靴下にあなたの手が残っていると思えば、きっと耐えられる」

玄関へ向かう。

夫の革靴の隣で、自分の靴を履いた。

昨夜、この家へ入ったときよりも指が震えていた。

靴紐を結び終えて立ち上がると、香織さんが目の前にいた。

白いリブソックスの両足で、冷たい玄関の床に立っている。

「ここで、夫を毎朝見送るの」

「今日は俺を見送るんですね」

「二度と、こんなことはできないかもしれない」

「後悔していますか」

香織さんは首を横に振った。

「来てくれて、ありがとう」

彼女の指が俺の頬へ触れる。

扉を開ければ、俺たちはまた人妻パートとアルバイトへ戻る。

その前に、短く唇が重なった。

「行ってきます」

俺が言うと、香織さんの目に涙が浮かんだ。

「それは、夫がいつも言う言葉よ」

「すみません」

「謝らないで」

香織さんは涙を拭い、笑顔を作った。

「いってらっしゃい、悠真君」

俺は玄関を出た。

外はまだ薄暗く、住宅街は静まり返っている。

門を抜け、振り返る。

香織さんが扉の隙間から俺を見ていた。

足元には、白い靴下がのぞいている。

扉がゆっくり閉まった。

俺は駅へ向かって歩き始めた。

角を一つ曲がったとき、後ろから車の音が聞こえた。

何となく振り返る。

一台のタクシーが、香織さんの家の前で止まった。

後部座席の扉が開く。

降りてきた男の顔を見て、息が止まった。

香織さんの夫だった。

時計を見る。

午前五時五十八分。

七時より一時間も早い。

夫は鞄を持ち、玄関へ向かっていく。

俺は電柱の陰へ身体を隠した。

もし、あと数分遅く家を出ていたら。

玄関で鉢合わせしていた。

夫が鍵を取り出す。

扉が開いた。

その向こうに、一晩中俺と過ごした香織さんがいる。

白い靴下を履いたまま。

扉が閉まる。

俺はその場から動けなかった。

十分ほどして、スマートフォンが震えた。

香織さんからだった。

『夫が帰ってきた』

続けて、もう一通届く。

『玄関に知らない靴の跡があるって言ってる』

胸の奥が冷たくなる。

雨は降っていない。

けれど、早朝の湿った地面を歩いた俺の靴底が、玄関に薄い跡を残していたらしい。

『何て答えたんですか』

既読はついたが、返信がない。

一分。

二分。

三分。

ようやく新しいメッセージが届いた。

『昨夜、誰か家に来たのかって聞かれている』


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※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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