金曜日が来るのを、俺は待っていた。
待ってはいけないと思いながら、何度もカレンダーを確認した。
香織さんの夫が、泊まりの出張へ行く日。
朝から何度もスマートフォンを見たが、香織さんから連絡はなかった。
先週の夜に届いた、
『来週の金曜日、夫は泊まりの出張なの』
というメッセージ。
あれが誘いだったのか、それともただ事実を伝えただけだったのか、俺には分からない。
店へ着くと、香織さんはいつもどおり惣菜売り場で働いていた。
白いシャツ。
膝丈の黒いスカート。
黒いローファー。
そして、履き口からのぞく白いリブソックス。
目が合っても、香織さんは何も言わなかった。
それどころか、俺を避けるように視線をそらした。
夫がいない夜のことを意識しているのは、俺だけなのかもしれない。
閉店時間が近づいても、彼女から連絡はなかった。
片づけを終え、従業員通路を歩いていると、背後から声を掛けられた。
「悠真君」
振り返ると、香織さんが立っていた。
エプロンの前で両手を組み、緊張した顔で俺を見ている。
「今日、ご主人は本当にいないんですか」
俺が尋ねると、香織さんは周囲を確認してから小さくうなずいた。
「朝早く出ていったわ。帰るのは明日の夕方」
「それを俺に伝えて、どうするつもりだったんですか」
「分からない」
「分からないまま、一週間も待たせたんですか」
「私も一週間、ずっと考えていたの」
香織さんの足元へ視線を落とす。
両足に履かれた白い靴下は、先週のものとは違う新しいリブソックスだった。
「今日も白ですね」
「朝、何色にするか迷ったの」
「それで白を選んだ?」
「あなたに会うから」
その言葉だけで、一週間押さえていた気持ちがあふれそうになった。
けれど、ここは職場だった。
誰かが通るかもしれない。
俺が一歩近づくと、香織さんはエプロンのポケットから小さな紙を取り出した。
住所が書かれている。
「これは?」
「私の家」
顔を上げると、香織さんの頬が赤くなっていた。
「先に帰って待っているわ」
「本当に行っていいんですか」
「来てほしくなかったら、住所なんて渡さない」
「ご主人と暮らしている家ですよ」
「分かっているわ」
「途中で怖くなっても、もう戻れないかもしれません」
香織さんは唇を結び、しばらく俺を見つめていた。
「それでも、今夜だけは夫の妻じゃなくて、香織でいたいの」
それだけ言うと、香織さんは俺の横を通り過ぎた。
黒いローファーの音が、従業員通路の奥へ遠ざかっていく。
一時間後。
俺は紙に書かれた住所の前に立っていた。
郊外の静かな住宅街にある二階建ての家。
玄関横には、夫の名字が書かれた表札が掛かっている。
香織さんも、その名字を名乗っている。
インターホンを押す指が震えた。
しばらくして、玄関の扉が開いた。
「本当に来たのね」
香織さんが小さく笑った。
仕事着のままだったが、エプロンだけは外している。
玄関の明かりの下で、白いシャツが柔らかく照らされていた。
彼女はもうローファーを脱いでいる。
両足には、仕事中から履いていた白いリブソックス。
「来てはいけなかったですか」
「来なかったら、きっと寂しかった」
香織さんが身体を横へずらす。
「入って」
玄関へ足を踏み入れると、革靴がきれいに並べられていた。
香織さんの夫の靴。
店のバックヤードで握手をした男が、毎朝それを履いて家を出ている。
その隣には、香織さんの黒いローファーが揃えて置かれていた。
俺は靴を脱いだが、廊下へ上がることができなかった。
「どうしたの?」
「ご主人の靴を見たら、急に怖くなりました」
「帰る?」
香織さんの声が不安そうに揺れる。
俺は首を横に振った。
「帰りません」
廊下へ上がると、香織さんが安堵したように息を吐いた。
白い靴下の両足が、俺の前をゆっくり歩いていく。
職場で何度も見つめてきた足。
けれど今、その足が歩いているのは、彼女が夫と暮らす家の廊下だった。
通されたリビングには、二人の生活が残されていた。
並んだマグカップ。
ソファの背へ掛けられた男性用の上着。
棚の上には、香織さんと夫が笑っている写真が飾られている。
俺が写真を見ていることに気づき、香織さんが視線を落とした。
「結婚したばかりの頃よ」
「幸せそうですね」
「幸せだったわ」
「今は違うんですか」
「不幸ではないの。でも、妻でいる時間が長すぎて、自分が女だったことを忘れていたのかもしれない」
香織さんはソファへ腰を下ろした。
両足を揃えると、白いリブソックスの縦模様が足首からつま先まで続いている。
「悠真君に見られるようになって、思い出してしまったの」
「何をですか」
「誰かの視線で、胸が熱くなること」
俺は香織さんの前へ膝をついた。
ここへ来てもよいのか、まだ迷っていた。
それでも、目の前にある白い靴下から視線を離せなかった。
「触れてもいいですか」
「そのために呼んだのよ」
香織さんが右足を持ち上げ、俺の膝へ預けた。
白いリブ生地には、一日働いたあとの温度が残っている。
続いて左足も重ねられる。
俺は両足を下から支えた。
「ご主人のいない家で、こんなことをするんですね」
「夫がいないから、あなたを呼んだの」
「ご主人の写真が、こっちを見ています」
香織さんが棚の写真へ目を向ける。
「見られていると思うと、怖いわ」
「やめますか」
「やめないで」
答えた声には迷いがなかった。
俺は白い靴下に包まれた足首を、両手でゆっくり包み込んだ。
香織さんがソファの背へ身体を預ける。
目を閉じ、唇から細い息を漏らした。
「今日、この靴下を選んでよかった」
「どうしてですか」
「夫がいない夜に、悠真君が触れてくれると思いながら、一日中履いていたから」
「仕事をしている間も、今夜のことを考えていたんですか」
「何度も考えたわ。そのたびに、あなたと目を合わせられなくなったの」
香織さんの白い靴下へ、俺の指先が沈む。
彼女の両足が、俺の手を求めるように少しだけ動いた。
そのとき、テーブルの上に置かれたスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、二人の動きが止まる。
夫からのビデオ通話だった。
「出ないんですか」
「出なかったら、心配するわ」
「俺はどうすれば」
「そこにいて」
香織さんは俺の膝から足を下ろさなかった。
スマートフォンを手に取り、カメラへ映る範囲を確認する。
画面には、香織さんの顔と上半身しか映っていない。
ソファの下にいる俺の姿も、彼女の白い靴下も見えなかった。
香織さんが通話ボタンを押す。
『香織、まだ起きていたのか』
夫の声がリビングに響いた。
「ええ。お帰りなさい。そっちはどう?」
いつもの穏やかな妻の声だった。
けれど画面の外では、白い靴下の両足が俺の膝に載せられている。
『今、ホテルに着いたところだよ。一人で大丈夫か?』
「大丈夫。テレビを見ていたの」
嘘をつきながら、香織さんが俺を見る。
その瞳には恐怖と、それ以上の熱が浮かんでいた。
『何だか顔が赤いな』
夫の言葉に、香織さんの足へ力が入った。
両足が俺の膝を挟む。
「お風呂から出たばかりだから」
『そうか。風邪をひかないようにな』
「あなたも、ゆっくり休んでね」
『明日の夕方には帰るよ』
「待っているわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が痛んだ。
夫を待っている妻。
その妻の白い靴下に、俺は今も触れている。
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみなさい」
通話が切れた。
香織さんはスマートフォンをテーブルへ置き、両手で顔を覆った。
「私、最低ね」
「俺も同じです」
「夫に待っていると言いながら、あなたを家へ入れている」
「帰った方がいいですか」
香織さんが顔を上げた。
「帰らないで」
彼女は膝から両足を下ろすと、床にいる俺の前へ身を乗り出した。
「今、夫の声を聞いたのに、それでも悠真君に触れてほしいと思っているの」
「香織さん」
「今夜だけは、悪い妻のままでいさせて」
香織さんの指が俺の頬へ触れた。
俺は立ち上がり、彼女の身体を抱き締めた。
唇が重なる。
最初は確かめるように。
けれど、すぐに一週間分の迷いを奪い合うような口づけへ変わった。
香織さんの腕が俺の背中へ回る。
白い靴下の両足が床を滑り、俺の足へ触れた。
「悠真君」
唇が離れたわずかな隙間で、香織さんが俺の名を呼ぶ。
「今日は、靴下を脱がせないで」
「どうしてですか」
「あなたに見せるために選んだ白だから」
俺は答える代わりに、もう一度彼女を抱き締めた。
夫の写真が置かれたリビングで、俺たちは長い間、互いの体温を確かめ合った。
時計の針が進んでも、香織さんは俺を離そうとしなかった。
白い靴下だけは脱がないまま、二人の影がソファの上で重なった。
どれくらい時間が過ぎたのだろう。
香織さんが俺の胸へ頬を寄せている。
乱れた髪。
少し開いた白いシャツの襟元。
そして、ソファの端からのぞく白いリブソックスの両足。
「ご主人が帰ってきたら、この夜はなかったことにするんですか」
俺が尋ねると、香織さんはすぐには答えなかった。
「できると思う?」
「できないでほしいです」
「私も、もう無理かもしれない」
そのとき、テーブルの上のスマートフォンが再び震えた。
夫からのメッセージだった。
香織さんが画面を開く。
『明日の予定が変わった。朝一番の電車で帰ることになったよ』
二人で時計を見る。
午前零時を過ぎていた。
「朝一番って、何時ですか」
「早ければ、七時には帰ってくる」
香織さんの顔から血の気が引いていく。
リビングには、俺の上着と鞄が置かれている。
玄関には、夫の靴の隣に俺の靴がある。
香織さんの白い靴下には、俺が触れた跡が残っている。
「悠真君」
彼女が俺の腕を強く握った。
「朝まで、あと六時間しかないわ」
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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