「いるよ、香織」
夫の声が、俺のスマートフォンへ静かに届く。
電話の向こうで、香織さんが息をのんだ。
「どうして、二人が一緒にいるの」
「昨夜、君のスマートフォンから連絡したと言っただろう」
夫はテーブルの上へ視線を落とした。
白い布袋の中には、香織さんが昨日まで履いていた白いリブソックスが入っている。
「悠真君と、話をしていた」
「何を話したの」
「君が話してくれなかったことを、彼に聞いた」
沈黙が流れた。
俺はスマートフォンを耳に当てたまま、夫の顔を見ることができなかった。
「靴下も持っていったの?」
香織さんの声がわずかに強くなる。
夫が白い布袋へ手を置いた。
「持ってきたよ」
「どうして」
「彼が見れば、何か分かると思ったからだ」
「返して」
「誰に?」
夫の問いに、香織さんは答えなかった。
「君に返せばいいのか。それとも、悠真君に渡せばいいのか」
「私のものよ」
「そうだね。だから、君が誰のためにそれを履いていたのか聞いている」
俺の指先に力が入った。
夫は俺から聞いた言葉を、香織さん本人へ確かめようとしている。
「悠真君は、君が自分に見せるため白い靴下を選んだと言っている」
「ご主人、それは」
「君は黙っていてくれ」
夫の低い声に、言葉を止めた。
電話の向こうから、香織さんの小さな呼吸だけが聞こえる。
「本当なのか、香織」
長い沈黙のあと、答えが返ってきた。
「ええ」
夫の表情が固まる。
「本当よ。金曜日は、悠真君が見ると思って白い靴下を選んでいた」
何度も想像した言葉だった。
けれど、夫の目の前で聞くと、喜びより先に胸が痛んだ。
「いつからだ」
夫が尋ねる。
「悠真君が、初めて私の靴下を白くてきれいだと言った次の週から」
香織さんの声は、もう逃げようとしていなかった。
「金曜日の朝になると、何足かベッドの上へ並べたの。短いものと、少し長いもの。無地のものと、リブの入ったもの」
俺は目を閉じた。
まだ俺が店へ向かう前、香織さんは家で一人、白い靴下を選んでいた。
「両足に履いて鏡の前へ立って、スカートやローファーに合うか確かめたわ」
「私が家にいる朝もか?」
「ええ。あなたが隣の部屋にいるときも」
夫の手が、冷めたコーヒーカップの横で固く握られる。
「玄関で結婚指輪を見るたび、やめようと思った。でも、店へ着いて悠真君の顔を見ると、選んできてよかったと思ってしまった」
その告白は、白い靴下に触れたどの夜よりも重かった。
俺だけに向けられていた秘密を、今は夫も聞いている。
「それを履いた足に、彼を触れさせたのか」
「私からお願いしたの」
「香織さん」
「悠真君は黙っていて」
今度は香織さんが俺の言葉を遮った。
「もう、私をかばわないで。私が選んだことなの」
夫は布袋の紐を握ったまま、うつむいている。
「なぜだ」
その声は、今までで一番弱かった。
「私が君を見ていなかったからか」
「見てくれていたわ」
香織さんは静かに答えた。
「毎日働いていることも、家のことをしていることも、あなたはちゃんと見てくれていた」
「それなら、なぜ」
「でも、私はずっと『あなたの妻』だった」
香織さんの声が震える。
「悠真君の前では、ただの香織でいられたの」
夫が目を閉じた。
俺は何も言えなかった。
香織さんが俺に見せていたものは、白い靴下だけではなかった。
妻でも、パート従業員でもない、一人の女としての自分だった。
「私は、君を愛していなかったわけではない」
夫が言う。
「分かっているわ」
「君が隣にいることを、当たり前だと思っていたのかもしれない」
「私も同じよ。あなたなら、何をしても家で待っていてくれると思っていた」
二人の会話を、俺が聞いていてよいのか分からなかった。
通話を切ろうとして、画面へ指を近づける。
「切らないで、悠真君」
香織さんが言った。
「二人に聞いてほしいの」
そのとき、店の入口でチャイムが鳴った。
反射的に顔を向ける。
濃い灰色のカーディガンを羽織った香織さんが立っていた。
紺色のスカート。
黒いローファー。
その履き口から、白いリブソックスが両足にのぞいている。
昨日履いていたものとは別の、きれいな白い靴下だった。
夫も香織さんに気づいた。
「どうしてここへ」
「あなたが家に置いていったメモを見たの」
香織さんは通話を切り、俺たちの席まで歩いてきた。
一歩進むたび、両足の白い靴下がローファーの上で揺れる。
俺の隣にも、夫の隣にも座らなかった。
テーブルの端にある一人用の椅子を引き、二人の間へ腰を下ろす。
「その靴下も、彼に見せるために履いてきたのか」
夫の視線が、香織さんの足元へ落ちる。
香織さんは両足を揃えた。
「今日は違うわ」
「では、なぜ白なんだ」
「私が履きたかったから」
香織さんは夫を見たあと、俺へ視線を移した。
「今日は、どちらのためでもないの」
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
けれど、その言葉から目をそらしてはいけないと思った。
香織さんは夫の前にある白い布袋へ手を伸ばした。
「これは返して」
夫はすぐには手を離さなかった。
布袋を挟み、二人の指が触れ合う。
「捨てるのか」
「分からない」
「彼に渡すのか」
「それも、今は決めない」
夫の手から力が抜けた。
香織さんは白い布袋を自分の膝へ置いた。
中から二枚の白い靴下を取り出し、しばらく見つめる。
「これを脱ぎたくなかったのは、悠真君に触れられたからだけじゃない」
香織さんの指が、細いリブ模様をなぞった。
「久しぶりに、自分で何かを選んだ気がしたから」
「私との生活は、君が選んだものではなかったのか」
「選んだわ。だから、簡単に捨てられないの」
香織さんは顔を上げた。
「でも、悠真君と過ごした時間も、なかったことにはできない」
夫と俺は何も言えなかった。
「どちらを選ぶんだ」
夫が尋ねる。
「今、ここで決めるつもりはないわ」
「逃げるのか」
「違う。初めて、自分一人で考えるの」
香織さんは白い靴下を布袋へ戻し、紐を結んだ。
「今夜は家へ帰らない」
夫が椅子から身を乗り出す。
「どこへ行く」
「一人でホテルに泊まるわ」
「送るよ」
「来ないで」
香織さんは夫をまっすぐ見た。
次に俺を見る。
「悠真君も、追いかけないで」
「香織さん」
「今夜だけは、誰の香織にもなりたくないの」
香織さんは立ち上がった。
白い靴下の入った布袋を胸元へ抱える。
黒いローファーの両足が、俺たちから離れていく。
入口の扉が閉じても、夫も俺も動かなかった。
テーブルには、二杯の冷めたコーヒーと、香織さんの触れた跡だけが残っている。
「追いかけたいか」
夫が俺に尋ねた。
「はい」
「私もだ」
けれど、どちらも席を立たなかった。
しばらくして、俺のスマートフォンが一度だけ震えた。
香織さんからのメッセージ。
『白い靴下は、誰のものでもないの』
続けて、もう一通。
『次に会うときは、私が決めたあとです』
既読をつけた直後、香織さんのアカウントはオフラインになった。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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