香織さんが店を出てからも、俺と夫はしばらく席を立てなかった。
テーブルの上には、冷めたコーヒーが二杯。
けれど、さっきまで中央にあった白い布袋は、もうない。
香織さんが自分の手で取り戻し、ホテルへ持っていった。
「追わないんだな」
夫が静かに尋ねた。
「追わないでと言われましたから」
「私も同じだ」
そう答えながら、夫は何度も入口の扉へ目を向けていた。
俺も同じだった。
今すぐ店を飛び出し、香織さんを捜したかった。
どこのホテルにいるのか聞いて、せめて一人にしないと伝えたかった。
けれど、それをすれば、香織さんが初めて自分で選んだ夜を奪うことになる。
「もし香織から連絡が来ても、居場所は聞かないでくれ」
夫が立ち上がった。
「ご主人も、聞かないんですか」
「聞きたいよ」
夫は財布から紙幣を取り出し、二人分の伝票の下へ置いた。
「でも、今夜まで妻の言葉を疑ったら、もう何も残らない」
夫は一人で店を出ていった。
俺は空になった中央の椅子を、しばらく見つめていた。
その夜、自分の部屋へ戻っても眠れなかった。
スマートフォンを机の上へ置いては手に取り、画面が暗くなるたびに電源ボタンを押す。
香織さんの最後のメッセージには、返信できないままだった。
『次に会うときは、私が決めたあとです』
待つことしかできない。
そう分かっているのに、指は何度も文字を打ちかけた。
午前一時三十八分。
スマートフォンが震えた。
香織さんから、一枚の写真が届いている。
ホテルの部屋らしい、濃い色の絨毯。
ベッドの脇には、左右の黒いローファーがきれいに揃えて置かれていた。
その少し奥に、椅子へ腰掛けた香織さんの両足が写っている。
白いリブソックスを履いた両足。
ファミリーレストランで、夫と俺の前に座っていたときと同じものだった。
『ホテルに着きました』
短い一文に、すぐ既読をつける。
『無事でよかったです』
それだけ送った。
場所を尋ねないよう、何度も文章を読み返してから送信した。
すぐに、着信画面へ香織さんの名前が表示された。
「もしもし」
『起きていたのね』
「眠れるわけないでしょう」
電話の向こうで、香織さんが小さく笑った。
疲れた、寂しそうな笑い声だった。
「ご主人にも連絡しましたか」
『ホテルに着いたことだけ伝えたわ。場所は教えていないの』
「そうですか」
『聞かないのね』
「聞いたら、行ってしまうから」
沈黙のあと、香織さんが息を吐いた。
『ありがとう』
俺は送られてきた写真をもう一度開いた。
両足の白い靴下だけが、暗い部屋の中で浮かんで見える。
「まだ、履いているんですね」
『ええ』
「今日は誰のためでもないって、言っていましたよね」
『そう言ったわ』
「それなのに、俺へ見せるんですか」
香織さんはすぐに答えなかった。
『一人でいると、本当に誰のためでもなくなってしまうでしょう』
その声が、かすかに震えていた。
『そうしたら、急に怖くなったの』
「何がですか」
『白い靴下を脱いだあと、私には何が残るのか分からなくなった』
胸が締めつけられた。
『夫の前では妻で、店ではパート従業員で、悠真君の前では白い靴下を履いた香織だった』
「俺は、靴下がなくても香織さんを」
『今は言わないで』
優しい声で遮られた。
『そう言ってもらえたら、またあなたに答えを預けてしまうから』
俺は唇を閉じた。
電話の向こうで、ベッドが小さくきしんだ。
『今から、脱ぐわ』
心臓が大きく鳴った。
「俺と話したままでいいんですか」
『触れてもらうためじゃない。見せるためでもない』
香織さんの指が、白いリブ生地へ触れる気配がした。
『一人で脱げることを、悠真君に聞いていてほしいの』
微かな衣擦れが、電話越しに届く。
まず右足の履き口を、両手でゆっくり下ろしているのだろう。
細いリブ模様が足首を離れ、かかとを越え、つま先から抜けていく。
香織さんが小さく息を吐いた。
『右足、脱いだわ』
「はい」
『何も言わないのね』
「今は、香織さんが決める時間だから」
また衣擦れの音がする。
今度は左足。
俺が何度も両手で包んだ白い靴下の足を、香織さん自身の指がほどいていく。
『左も、脱いだ』
その言葉を聞いた瞬間、寂しさと安堵が同時に込み上げた。
香織さんは誰にも触れさせず、自分の手で両足の白い靴下を脱いだ。
『二枚、並べて置いたわ』
「布袋に入れるんですか」
『いいえ。昨日まで履いていたものは、あの袋の中。この靴下は、今夜の私の隣に置いておく』
「違う靴下なんですね」
『昨日までの靴下には、悠真君の手と、夫の疑いが残っている』
香織さんの声が少しだけ強くなる。
『でも、今日の靴下には、私が二人の前で本当のことを言った記憶が残っているの』
俺は何も返せなかった。
白い靴下は同じように見えても、香織さんにとっては一足ずつ違う夜を覚えている。
『悠真君』
「はい」
『明日の朝、家へ帰るわ』
指先が冷たくなった。
「ご主人のところへ戻るんですか」
『夫を選ぶために帰るんじゃない』
香織さんは静かに答えた。
『今まで重ねた嘘を、二人で終わらせるために帰るの』
「そのあと、俺とは」
『今は約束できない』
覚悟していた答えなのに、胸が痛んだ。
『でも、逃げたまま終わらせたくない。夫と話したあと、悠真君にも私の言葉で伝える』
「待っています」
『待たなくてもいいのよ』
「それも、俺が決めます」
しばらく沈黙が続いた。
やがて香織さんが、少しだけ笑った。
『そうね。私だけが決めるんじゃないものね』
通話が終わったのは、午前二時を過ぎたころだった。
俺は机にスマートフォンを置いた。
もう、画面を何度も確かめることはしなかった。
夜が明ける直前、短い眠りから目を覚ます。
新しいメッセージが二通届いていた。
一通目には、ホテルの白いシーツの上へ並べられた左右の白いリブソックスが写っている。
履き口も、かかとも、つま先も、きれいに揃えられていた。
その隣には、紐を結んだ白い布袋。
『今から家へ帰ります』
続く一文を開く。
『妻としてではなく、香織として夫と話してきます』
俺は写真の中の二足分の白い靴下を見つめた。
昨日までの秘密を包んだ一足と、自分で脱いだ今夜の一足。
どちらも、もう俺のものではない。
返信を打とうとしたとき、三通目が届いた。
『次の金曜日、白い靴下を履くかどうかは、その朝の私が決めるわ』
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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