🎵 9月6日(日)20:00 連載開始!
第2話以降は、毎週土曜日20:00に最新話を公開します。
本作品は全20話で完結予定です。
スーパーで働き始めて、三年になる。
毎日、何百人もの客とすれ違う。
商品を棚に並べ、空いた段ボールを片づけ、閉店時間になれば売り場を整える。
誰がどんな服を着ているかなんて、いちいち覚えていない。
ましてや、足元など気にしたこともなかった。
――香織さんが、この店へ来るまでは。
九月に入ったばかりの、まだ蒸し暑さが残る午後だった。
俺が従業員用の通用口から入ると、事務所の前に見慣れない女性が立っていた。
淡い色のブラウスに、膝が隠れる紺色のスカート。
派手なところは何もないのに、その人だけが周囲から静かに浮かび上がって見えた。
「今日から惣菜部門に入る香織さん。悠真くん、売り場とバックヤードを案内してあげて」
店長に呼ばれ、俺は慌てて頭を下げた。
「悠真です。品出しと、夜の閉店作業を担当してます」
「香織です。三十九歳です。惣菜のお仕事は初めてなので、迷惑をかけるかもしれませんが……よろしくお願いします」
控えめな声だった。
けれど、顔を上げたときに見えた目は柔らかく、思わず見つめ返したくなるような温かさがあった。
左手の薬指には、細い結婚指輪が光っていた。
香織さんは、俺より十六歳年上の人妻だった。
案内を始める前に、香織さんは通用口の脇にあるベンチへ腰を下ろした。
外から履いてきた靴を脱ぎ、用意していた黒い仕事用のスリッポンへ履き替える。
そのときだった。
スカートの裾から、真っ白な靴下がのぞいた。
短めの丈で、足首を包む部分には細いリブ模様が入っている。
飾りも柄もない、ごく普通の白い靴下。
けれど、大人の女性が履いているせいなのか、その白さは妙に清潔で、無防備に見えた。
香織さんは片方の足を少し持ち上げ、黒いスリッポンへゆっくり滑り込ませた。
白い布地に包まれた踵が、靴の中へ隠れていく。
俺は、それを目で追ってしまった。
「……これ、新しいから、まだ少し硬くて」
突然そう言われ、心臓が跳ねた。
香織さんが、こちらを見上げていた。
「履いているうちに、柔らかくなると思います」
俺は咄嗟に答えた。
自分でも不自然なくらい、早口だった。
「そうよね」
香織さんは小さく笑い、もう片方の靴も履いた。
俺の視線に気づいたのか。
それとも、本当に仕事靴の話をしただけなのか。
そのときの俺には、分からなかった。
売り場の案内を始めると、香織さんは小さなメモ帳を取り出した。
惣菜売り場から従業員通路、冷蔵庫、資材置き場まで、俺が説明したことを一つずつ丁寧に書き留めていく。
「この扉の先が、惣菜のバックヤードです。床が滑りやすいので、気をつけてください」
「ありがとう、悠真くん」
初めて名前を呼ばれた。
落ち着いた女性の声で「悠真くん」と呼ばれただけなのに、胸の奥がくすぐったくなった。
「香織さんは、午後からの勤務なんですね」
「ええ。家のことを済ませてから来られる時間にしてもらったの。主人の帰りも遅いから」
やはり結婚している。
分かっていたことなのに、「主人」という言葉を聞くと、なぜか少しだけ距離を置かれたような気がした。
「悠真くんは、ここ長いの?」
「三年くらいです」
「それなら先輩ね。これから、いろいろ教えてください」
そう言って笑う香織さんは、三十九歳という年齢より若く見えた。
ただ、その笑顔の奥には、どこか寂しそうなものがあった。
誰かに話しかけてもらうことを、ずっと待っていたような。
そんなふうにも見えた。
その日の俺は、いつもより頻繁に惣菜売り場の前を通った。
不足している商品を確認するため。
回収する箱が残っていないかを見るため。
自分にそう言い聞かせたが、本当は香織さんの姿を探していた。
新しい制服を着た香織さんは、慣れない手つきながらも懸命に働いていた。
商品を並べるために屈むたび、紺色のズボンの裾から、白いリブ靴下がわずかに見えた。
ほんの数センチ。
それだけなのに、俺の目は何度も引き寄せられた。
白い靴下と黒いスリッポン。
その組み合わせが、いつの間にか頭から離れなくなっていた。
閉店前、俺が空の台車をバックヤードへ戻すと、香織さんが壁際の椅子に座っていた。
「お疲れさまです」
声をかけると、香織さんは少し困ったように笑った。
「初日から、ちょっと情けないところを見られちゃった」
右足のスリッポンから、踵だけが浮いていた。
新しい靴が擦れたのだろう。
香織さんは足先を靴に残したまま、白い靴下に包まれた踵を半分だけ外へ出していた。
さっきよりも多く見えた白い布地に、俺の視線が止まる。
「足、痛いんですか」
「少しだけ。ずっと立っていたから、慣れない靴だと疲れるわね」
香織さんは白い踵を宙で小さく動かし、それからスリッポンの中へ戻した。
「休憩室なら、靴を脱いで休んでいる人もいますよ」
「本当?」
「はい。畳のスペースもありますから」
「それなら明日は、休憩のときに脱がせてもらおうかしら」
香織さんは冗談めかして言った。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭には、黒いスリッポンを脱いだ香織さんの足が浮かんだ。
白い靴下だけになった足。
誰にも見られない休憩室で、それが俺のすぐそばにある光景。
想像したことを悟られないように、俺は台車の取っ手を強く握った。
「悠真くん、明日の休憩は何時?」
「四時半です」
「私も同じ時間だったと思う」
香織さんは立ち上がると、スカートの裾を整えた。
そして俺の顔を見て、静かに微笑んだ。
「じゃあ、明日は一緒ね」
香織さんが去ったあとも、その声が耳に残っていた。
目を閉じると、白い靴下に包まれた踵が浮かんでくる。
あれは、どこにでも売っている普通の靴下のはずだった。
けれど香織さんが履いているというだけで、もう俺には普通の白には見えなかった。
翌日の休憩時間が、待ち遠しくて仕方なかった。
次回 第2話「休憩室で靴を脱いだ香織さん」
初めて二人きりで過ごす休憩時間。
香織が黒いスリッポンを脱いだとき、悠真は昨日よりも近い場所で、彼女の白い靴下を目にすることになる。
📅 第2話は9月12日(土)20:00公開予定です
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最終話まで待たずに、本編全20話を一気にお楽しみいただけます。
販売版限定の大幅加筆・香織視点特別編・カラー挿絵6枚を収録。
全245ページ・税込770円・体験版あり。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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