香織さんとキスをしてから、三日が過ぎた。
同じ売り場に立っていても、もう以前のようには彼女を見られない。
商品を並べる横顔。
客へ向ける穏やかな笑顔。
黒いスリッポンからのぞく白い靴下。
すべてを見ながら、閉店後のバックヤードで触れた体温を思い出してしまう。
香織さんも、何事もなかったように仕事をしていた。
けれど、すれ違うときだけ、俺の顔を見て小さく笑った。
その視線は、あの夜を覚えている人のものだった。
土曜日の夕方、仕事を終えて帰ろうとしたとき、スマートフォンが震えた。
香織さんからだった。
『今夜、会える?』
短い文章を見ただけで、心臓が速くなる。
『会えます』
すぐに返事をすると、駅から少し離れた場所を指定された。
待ち合わせの時間は、午後九時。
いつものスーパーではない。
閉店後のバックヤードでもない。
誰にも見られず、二人だけになれる場所だった。
駅前の人通りから離れた角で、香織さんは待っていた。
淡い色のブラウスに、膝下まである紺色のスカート。
仕事中のエプロン姿とは違う、大人の女性の服装だった。
足元には黒いローファー。
その履き口から、真っ白な靴下がのぞいている。
いつものリブ靴下より少し長く、履き口がきれいに三つ折りにされていた。
「待った?」
「今来たところです」
ありふれた会話なのに、互いの顔をまともに見られなかった。
香織さんの左手には、今日も結婚指輪があった。
「行きましょうか」
彼女が先に歩き出す。
俺は何も聞かず、その隣を歩いた。
たどり着いたのは、駅から離れた小さなホテルだった。
入口の前で、香織さんの足が止まる。
「ここまで来て、変だけど……」
彼女は指輪に触れながら言った。
「まだ、帰れるわよ」
「香織さんは、帰りたいですか」
すぐには答えなかった。
けれど、やがて俺の手を握った。
「帰りたくない」
その言葉を聞いて、俺たちは中へ入った。
部屋の扉が閉まる。
スーパーの制服も、店内放送も、誰かの視線もない。
二人きりだった。
香織さんはベッドの端へ腰を下ろした。
俺は少し離れた場所に立ったまま、彼女を見ていた。
「そんなところに立っていないで、こっちへ来て」
隣へ座ると、香織さんの肩が触れた。
ほのかな香水と、見慣れた柔軟剤の香りがする。
「緊張してる?」
「しています」
「私もよ」
香織さんはそう言って笑った。
左手の結婚指輪が、ベッド脇の明かりを受けて光っている。
「指輪……外さないんですか」
俺が尋ねると、香織さんは薬指を見つめた。
「外したら、独身のふりをしているみたいでしょう」
「はい」
「私は人妻のまま、ここへ来たの」
静かな声だった。
「それを分かっていて、悠真君に会いに来たのよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
香織さんは身体の向きを変え、俺と向き合った。
「それでも、抱いてくれる?」
俺は答える代わりに、彼女の頬へ手を添えた。
一度だけ目を見る。
香織さんが小さくうなずいた。
唇を重ねる。
最初から、バックヤードでしたときより深いキスだった。
彼女の指が、俺のシャツを強くつかむ。
俺も背中へ腕を回し、逃がさないように抱き寄せた。
何度も唇が重なる。
息を継ぐために離れても、香織さんはすぐに俺を求めた。
「悠真君……」
名前を呼ぶ声が甘く震えていた。
俺は首筋へ唇を移した。
香織さんの肩が小さく揺れる。
ブラウス越しに触れる身体は温かく、抱きしめるたびに柔らかく俺を受け止めた。
「待って」
突然、香織さんが俺の胸へ手を置いた。
俺はすぐに身体を離した。
「嫌でしたか」
「違うの」
香織さんはベッドから立ち上がった。
そして俺の前で、黒いローファーへ手を伸ばした。
右足。
左足。
二足の靴をゆっくり脱ぎ、床へそろえて置く。
紺色のスカートの下に、三つ折りにされた白いリブソックスが現れた。
両足とも、汚れひとつない真っ白な靴下。
「今日はね、悠真君に見せるために選んだの」
香織さんが恥ずかしそうに言った。
「いつもの白い靴下とは、少し違うでしょう?」
「履き口が三つ折りになっています」
「やっぱり、すぐ気づくのね」
彼女はベッドへ座り直し、右足を俺の膝へ乗せた。
白い靴下のつま先が、俺の服へ触れる。
「触って」
今度は俺から頼む必要がなかった。
香織さん自身が望み、白い靴下に包まれた足を差し出している。
俺は両手で右足を包んだ。
足裏から伝わる体温。
細いリブ模様。
三つ折りにされた履き口の厚み。
バックヤードで触れたときより、香織さんの身体が近くにある。
左足も持ち上げ、俺の膝へ預けられた。
両足を抱えるように支えると、香織さんの呼吸が少し速くなった。
「一日中、履いていたの?」
「夕方に履き替えたの」
「俺に会うために?」
「そうよ」
俺は白い靴下の足の甲へ顔を近づけた。
清潔な布の香りの奥に、香織さんの体温が混じっている。
彼女を見上げると、頬を赤くしながらも目をそらさなかった。
「してほしかったんですか」
「前にされたとき……嫌じゃなかったから」
白い靴下へ唇を触れさせる。
香織さんのつま先が小さく動いた。
もう一度。
今度は足の甲から、三つ折りの履き口へ向かって、ゆっくり唇を重ねていく。
「そんなところまで……」
香織さんの指が俺の髪へ触れた。
止めるためではない。
もっと近くへ引き寄せるような手つきだった。
俺は白い靴下に包まれた足首へ頬を寄せた。
彼女の体温を感じながら、三つ折りの白い布へ唇を押し当てる。
香織さんが息をのみ、俺の名前を呼んだ。
「悠真君、こっちへ来て」
俺が顔を上げると、香織さんは両手を伸ばした。
抱き寄せられ、再び唇が重なる。
今度は彼女のほうが積極的だった。
俺の首へ腕を回し、身体を預けてくる。
白い靴下に包まれた両足が、俺の脚へ触れていた。
キスをしたまま、二人でベッドへ倒れ込む。
香織さんの髪が白いシーツへ広がった。
「靴下……脱がさないの?」
耳元で尋ねられた。
「脱がないでほしいです」
俺が答えると、香織さんは少し照れたように笑った。
「そう言うと思った」
彼女は白い靴下を履いた足を持ち上げ、俺の身体へ絡めた。
三つ折りの履き口が、紺色のスカートの裾からのぞいている。
「じゃあ、このままね」
それは、今夜はもう戻らないという合図だった。
俺は香織さんを抱きしめた。
ブラウスのボタンへ指をかけると、彼女の手が重なる。
「大丈夫よ」
香織さんは自分から、ひとつずつボタンを外した。
隠されていた肌が少しずつ現れる。
俺はそこへ唇を重ね、彼女の体温を確かめていった。
香織さんは声を抑えるように唇を結んでいた。
けれど、身体は俺から逃げなかった。
むしろ触れるたび、もっと近くへ引き寄せようとする。
結婚指輪をした左手が、俺の背中を強くつかんだ。
「こんな私でも……いいの?」
「香織さんだから、ここにいます」
「人妻なのよ」
「分かっています」
「明日になったら、後悔するかもしれない」
「今、やめますか」
香織さんは俺を見つめた。
そして首を横に振った。
「やめないで」
もう迷う理由はなかった。
重なった身体の間から、最後の距離が消えていく。
白い靴下に包まれた両足が、俺の腰へ絡んだ。
香織さんは俺の名前を呼びながら、自分の意思で俺を受け入れた。
最初は互いの呼吸を確かめるように、ゆっくりと。
やがて、抑えていた想いがあふれるように、二人の動きが重なっていく。
シーツの上を、白い靴下の足が何度も擦った。
三つ折りの履き口が少し乱れても、香織さんは脱ごうとしなかった。
俺のために選んだ白い靴下を履いたまま、何度も身体を寄せてくる。
「悠真君……もっと近くに」
腕に力を込め、彼女を抱き寄せた。
香織さんも俺の背中へ両腕を回した。
結婚指輪が肌へ当たる。
その冷たさと、彼女の身体の熱さが同時に伝わった。
いけないことをしている。
誰かを裏切りながら、人妻を抱いている。
そう分かっているのに、二人とも止まれなかった。
香織さんの声。
乱れた呼吸。
白い靴下の足が、俺を逃がさないように絡みつく感触。
すべてが胸の奥へ刻まれていった。
互いの名前を呼びながら、最後まで身体を離さなかった。
やがて動きが止まり、静かな部屋に二人の呼吸だけが残った。
香織さんは俺の胸元へ顔を寄せたまま、何も言わなかった。
俺も背中へ腕を回し、しばらくその温かさを抱いていた。
白い靴下に包まれた片足が、まだ俺の脚の上に乗っている。
三つ折りの履き口は少し崩れていた。
俺が指先で直すと、香織さんが小さく笑った。
「そんなときまで、靴下を見てるのね」
「今日は、俺のために履いてくれたから」
「そうよ」
香織さんは白い靴下のつま先で、俺の足へそっと触れた。
「だから、帰るまでは脱がない」
そのとき、ベッド脇に置かれたスマートフォンが震えた。
画面を見た香織さんの表情が変わる。
表示されていた名前は見えなかった。
けれど、誰からなのかは分かった。
香織さんは身体を起こし、乱れた髪を手で整えた。
左手の結婚指輪が、再び目に入る。
少し迷ったあと、通話ボタンを押した。
「もしもし」
さっきまで俺の名前を呼んでいた声が、いつもの落ち着いた声へ戻っていた。
「うん。友達と話してたの……もう帰るから」
電話の向こうへ返事をしながら、香織さんの白い靴下の足は、まだ俺の手の中にあった。
通話を終えると、部屋に重い沈黙が落ちた。
「帰らないと」
「はい」
俺は白い靴下から手を離した。
けれど香織さんは、その足をすぐには引かなかった。
「悠真君」
「はい」
「今日のこと、後悔してる?」
「していません」
「私も……今は、してない」
香織さんはそう言って、俺へ短いキスをした。
そしてベッドから降り、床にそろえられた黒いローファーへ足を入れた。
右足。
左足。
三つ折りの白い靴下が、黒い靴の履き口からのぞく。
人妻の顔へ戻った香織さんが、扉の前で一度だけ振り返った。
「次に会うときも、白い靴下がいい?」
「はい」
俺が答えると、香織さんは寂しそうに、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「分かった。選んでおくね」
扉が閉まったあとも、部屋には香織さんの体温が残っていた。
俺の手にも、身体にも、白い靴下越しに触れた彼女の温かさが残っている。
俺たちの秘密は、もう後戻りできないところまで進んでいた。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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