閉店後、人妻パートの白い靴下に触れた|第12話「白い靴下のまま重ねた嘘」

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始発駅のホームへ着いたとき、スマートフォンが震えた。

香織さんからだった。

『夫が帰ってきた』

続けて、もう一通。

『玄関に知らない靴の跡があるって言われた』

俺は足元を見た。

昨夜から履いている黒いスニーカー。

靴底の縁には、香織さんの家を出たときに踏んだ湿った土が残っている。

あの玄関に残っていたのは、間違いなく俺の足跡だった。

『ご主人には、何と説明したんですか』

送信すると、すぐに既読がついた。

けれど、返事は来ない。

ホームへ始発電車が滑り込んできた。

扉が開いても、俺はスマートフォンから目を離せなかった。

発車を知らせる音が鳴る直前、新しいメッセージが表示された。

『悠真君が、店の忘れ物を届けに来てくれたって言った』

息が止まりそうになった。

『俺の名前を出したんですか』

『ごめんなさい。夫も悠真君のことを知っているから、その方が自然だと思ったの』

以前、バックヤードで夫と握手をした日のことが頭に浮かぶ。

俺のことを、真面目でよく気がつく子だと聞いている。

夫は、そう言って笑っていた。

その信頼を、香織さんと俺は利用しようとしている。

『何を届けたことにしたんですか』

俺が送ったメッセージには、既読がつかなかった。

代わりに届いたのは、短い文章だった。

『夫が、靴跡の前から動かない』

その数秒後。

『流しに置いた二つのマグカップも見ている』

昨夜、香織さんと並んで飲んだコーヒー。

帰る前に洗ったつもりだったが、乾くまでの時間までは考えていなかった。

俺がいた痕跡は、一つ消すたびに別の場所から浮かび上がってくる。

『香織さん、今は返信しなくていいです。ご主人の前ではスマートフォンを見ないでください』

そう送ったが、それにも既読はつかなかった。

電車の扉が閉まる。

窓に映った自分の顔は、朝帰りをする男の顔ではなかった。

追い詰められ、嘘を待っている男の顔だった。

その日の午後。

一睡もできないまま店へ行くと、香織さんはいつもどおり総菜売り場に立っていた。

白いシャツ。

膝丈の黒いスカート。

焦げ茶色のエプロン。

そして、黒いローファーの履き口から見える白いリブソックス。

昨夜、俺の膝に預けられていたものと同じ靴下だった。

香織さんも俺に気づいた。

一瞬だけ視線が重なる。

けれど、彼女は何も言わず、パックに値引きシールを貼り続けた。

夕方の混雑が落ち着いたころ、香織さんが小さな声で俺を呼んだ。

「悠真君、冷蔵庫の在庫を一緒に確認してくれる?」

業務の指示にしか聞こえない声だった。

俺は返事をして、彼女のあとを追った。

冷蔵庫へ続く短い通路には誰もいなかった。

香織さんは周囲を確かめてから、棚の陰で立ち止まった。

「ごめんなさい」

「ご主人は、信じたんですか」

「分からない。何も言わなくなったの」

「靴跡以外にも、何か言われましたか」

「流しのマグカップを見られたわ」

「二つとも?」

「ええ。夫が指で触れたら、悠真君が使った方だけ、まだ少し温かかったの」

背中に冷たいものが走った。

「それで、何て」

「『一人で二つ使ったのか』って聞かれた」

「香織さんは?」

「一つは昨日の朝から流しに置いたままだったって答えたわ」

「信じたと思いますか」

香織さんは小さく首を振った。

「夫は笑っただけ。『そうだったか』って」

怒鳴られるよりも、その笑顔の方が怖かったのだろう。

香織さんは自分の両腕を抱くようにして、細い指を食い込ませた。

「何を届けたことにしたんですか」

朝から聞きたかったことを、俺はもう一度尋ねた。

香織さんが答えようとしたとき、通路の向こうから台車を押す音が聞こえた。

二人同時に口を閉じる。

別の従業員が俺たちの前を通り過ぎ、冷蔵庫へ入っていった。

「休憩室で話しましょう」

香織さんが先に歩き出す。

その足元を見て、俺は思わず呼び止めた。

「その靴下、替えていないんですか」

香織さんの足が止まった。

「替えられなかったの」

「どうして」

「夫に聞かれたから」

彼女は俺を振り返らずに答えた。

「朝、玄関でこの靴下を見て、『昨日から履いていたのか』って」

「何て答えたんですか」

「仕事へ行くために、今朝履いたばかりだって」

香織さんがゆっくりこちらを向く。

「だから、今日はこれを履いて店へ来るしかなかったの」

黒いローファーの中で、白い靴下の両足が揃えられる。

昨夜、俺が触れた靴下。

夫のいない家で、俺の手の温度を覚えさせた靴下。

それを香織さんは、今朝履いたばかりのものだと夫に嘘をついた。

「靴下まで、私たちの嘘の中に入ってしまったわ」

「後悔していますか」

香織さんはしばらく黙っていた。

「怖い。でも、昨夜のことをなかったことにはしたくない」

その言葉に、俺は手を伸ばしかけた。

けれど、ここは店の通路だった。

触れる代わりに、握った拳をエプロンのポケットへ入れる。

「忘れ物は、何だったことにしたんですか」

三度目の質問だった。

香織さんが口を開く。

そのとき、売り場の方から男の声が聞こえた。

「香織」

彼女の顔から血の気が引いた。

「夫だわ」

俺たちは通路を出た。

総菜売り場の前に、香織さんの夫が立っていた。

朝まで出張だったとは思えないほど、整った服装をしている。

夫は俺を見つけると、穏やかな笑顔を浮かべた。

「悠真君。久しぶりだね」

「お久しぶりです」

喉が張りつき、声がうまく出なかった。

「あなた、どうしてここに」

香織さんが尋ねる。

「昼まで寝てしまったから、少し歩こうと思ってね。ついでに夕飯を買いに来たんだ」

夫はそう答えながら、俺へ視線を戻した。

「昨夜はありがとう」

「え?」

「香織が店に忘れ物をしたんだろう。家まで届けてくれたそうじゃないか」

香織さんが、夫の後ろで小さくうなずいた。

俺はそれに合わせるしかなかった。

「はい」

「遅い時間だったのに、悪かったね」

「いえ。ちょうど近くまで行く用事があったので」

口から出た言葉が、また新しい嘘になる。

夫の視線が、俺の足元へ落ちた。

今朝と同じ黒いスニーカー。

靴底に付いていた土は落としたが、形までは変えられない。

「その靴、昨日も履いていたのかい?」

心臓が大きく鳴った。

「はい」

「そうか」

夫は俺の靴を数秒見つめてから、何事もなかったように笑った。

「玄関に残っていた跡と、よく似ている気がしてね」

「家へ上がったからでしょう」

香織さんが割って入る。

「お茶を一杯出しただけよ。すぐに帰ったわ」

「責めているわけじゃないよ」

夫の声は穏やかだった。

だからこそ、何を考えているのか分からなかった。

「ただ、確認しておきたかったんだ」

夫が俺を見る。

「昨夜、香織に何を届けてくれたんだっけ?」

頭の中が真っ白になった。

香織さんから、答えを聞けていない。

名札。

エプロン。

勤務表。

どれもありそうで、どれも違う気がした。

夫は黙ったまま、俺の返事を待っている。

香織さんを見ることはできなかった。

見れば、口裏を合わせようとしていることが伝わってしまう。

「エプロンです」

俺は答えた。

夫の笑顔が消えた。

「そうか」

短く言ってから、夫は香織さんへ顔を向けた。

「香織は、名札を届けてもらったと言っていたけど」

静かな売り場で、パックを並べる音だけが聞こえた。

香織さんの黒いローファーが、半歩後ろへ下がる。

履き口からのぞく白いリブソックスが、わずかに震えていた。

夫は、俺と香織さんを交互に見た。

「どちらが本当なんだ?」

誰も答えられなかった。

昨夜から重ねてきた嘘が、香織さんの白い靴下の足元で、音もなく崩れ始めていた。


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※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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