始発駅のホームへ着いたとき、スマートフォンが震えた。
香織さんからだった。
『夫が帰ってきた』
続けて、もう一通。
『玄関に知らない靴の跡があるって言われた』
俺は足元を見た。
昨夜から履いている黒いスニーカー。
靴底の縁には、香織さんの家を出たときに踏んだ湿った土が残っている。
あの玄関に残っていたのは、間違いなく俺の足跡だった。
『ご主人には、何と説明したんですか』
送信すると、すぐに既読がついた。
けれど、返事は来ない。
ホームへ始発電車が滑り込んできた。
扉が開いても、俺はスマートフォンから目を離せなかった。
発車を知らせる音が鳴る直前、新しいメッセージが表示された。
『悠真君が、店の忘れ物を届けに来てくれたって言った』
息が止まりそうになった。
『俺の名前を出したんですか』
『ごめんなさい。夫も悠真君のことを知っているから、その方が自然だと思ったの』
以前、バックヤードで夫と握手をした日のことが頭に浮かぶ。
俺のことを、真面目でよく気がつく子だと聞いている。
夫は、そう言って笑っていた。
その信頼を、香織さんと俺は利用しようとしている。
『何を届けたことにしたんですか』
俺が送ったメッセージには、既読がつかなかった。
代わりに届いたのは、短い文章だった。
『夫が、靴跡の前から動かない』
その数秒後。
『流しに置いた二つのマグカップも見ている』
昨夜、香織さんと並んで飲んだコーヒー。
帰る前に洗ったつもりだったが、乾くまでの時間までは考えていなかった。
俺がいた痕跡は、一つ消すたびに別の場所から浮かび上がってくる。
『香織さん、今は返信しなくていいです。ご主人の前ではスマートフォンを見ないでください』
そう送ったが、それにも既読はつかなかった。
電車の扉が閉まる。
窓に映った自分の顔は、朝帰りをする男の顔ではなかった。
追い詰められ、嘘を待っている男の顔だった。
その日の午後。
一睡もできないまま店へ行くと、香織さんはいつもどおり総菜売り場に立っていた。
白いシャツ。
膝丈の黒いスカート。
焦げ茶色のエプロン。
そして、黒いローファーの履き口から見える白いリブソックス。
昨夜、俺の膝に預けられていたものと同じ靴下だった。
香織さんも俺に気づいた。
一瞬だけ視線が重なる。
けれど、彼女は何も言わず、パックに値引きシールを貼り続けた。
夕方の混雑が落ち着いたころ、香織さんが小さな声で俺を呼んだ。
「悠真君、冷蔵庫の在庫を一緒に確認してくれる?」
業務の指示にしか聞こえない声だった。
俺は返事をして、彼女のあとを追った。
冷蔵庫へ続く短い通路には誰もいなかった。
香織さんは周囲を確かめてから、棚の陰で立ち止まった。
「ごめんなさい」
「ご主人は、信じたんですか」
「分からない。何も言わなくなったの」
「靴跡以外にも、何か言われましたか」
「流しのマグカップを見られたわ」
「二つとも?」
「ええ。夫が指で触れたら、悠真君が使った方だけ、まだ少し温かかったの」
背中に冷たいものが走った。
「それで、何て」
「『一人で二つ使ったのか』って聞かれた」
「香織さんは?」
「一つは昨日の朝から流しに置いたままだったって答えたわ」
「信じたと思いますか」
香織さんは小さく首を振った。
「夫は笑っただけ。『そうだったか』って」
怒鳴られるよりも、その笑顔の方が怖かったのだろう。
香織さんは自分の両腕を抱くようにして、細い指を食い込ませた。
「何を届けたことにしたんですか」
朝から聞きたかったことを、俺はもう一度尋ねた。
香織さんが答えようとしたとき、通路の向こうから台車を押す音が聞こえた。
二人同時に口を閉じる。
別の従業員が俺たちの前を通り過ぎ、冷蔵庫へ入っていった。
「休憩室で話しましょう」
香織さんが先に歩き出す。
その足元を見て、俺は思わず呼び止めた。
「その靴下、替えていないんですか」
香織さんの足が止まった。
「替えられなかったの」
「どうして」
「夫に聞かれたから」
彼女は俺を振り返らずに答えた。
「朝、玄関でこの靴下を見て、『昨日から履いていたのか』って」
「何て答えたんですか」
「仕事へ行くために、今朝履いたばかりだって」
香織さんがゆっくりこちらを向く。
「だから、今日はこれを履いて店へ来るしかなかったの」
黒いローファーの中で、白い靴下の両足が揃えられる。
昨夜、俺が触れた靴下。
夫のいない家で、俺の手の温度を覚えさせた靴下。
それを香織さんは、今朝履いたばかりのものだと夫に嘘をついた。
「靴下まで、私たちの嘘の中に入ってしまったわ」
「後悔していますか」
香織さんはしばらく黙っていた。
「怖い。でも、昨夜のことをなかったことにはしたくない」
その言葉に、俺は手を伸ばしかけた。
けれど、ここは店の通路だった。
触れる代わりに、握った拳をエプロンのポケットへ入れる。
「忘れ物は、何だったことにしたんですか」
三度目の質問だった。
香織さんが口を開く。
そのとき、売り場の方から男の声が聞こえた。
「香織」
彼女の顔から血の気が引いた。
「夫だわ」
俺たちは通路を出た。
総菜売り場の前に、香織さんの夫が立っていた。
朝まで出張だったとは思えないほど、整った服装をしている。
夫は俺を見つけると、穏やかな笑顔を浮かべた。
「悠真君。久しぶりだね」
「お久しぶりです」
喉が張りつき、声がうまく出なかった。
「あなた、どうしてここに」
香織さんが尋ねる。
「昼まで寝てしまったから、少し歩こうと思ってね。ついでに夕飯を買いに来たんだ」
夫はそう答えながら、俺へ視線を戻した。
「昨夜はありがとう」
「え?」
「香織が店に忘れ物をしたんだろう。家まで届けてくれたそうじゃないか」
香織さんが、夫の後ろで小さくうなずいた。
俺はそれに合わせるしかなかった。
「はい」
「遅い時間だったのに、悪かったね」
「いえ。ちょうど近くまで行く用事があったので」
口から出た言葉が、また新しい嘘になる。
夫の視線が、俺の足元へ落ちた。
今朝と同じ黒いスニーカー。
靴底に付いていた土は落としたが、形までは変えられない。
「その靴、昨日も履いていたのかい?」
心臓が大きく鳴った。
「はい」
「そうか」
夫は俺の靴を数秒見つめてから、何事もなかったように笑った。
「玄関に残っていた跡と、よく似ている気がしてね」
「家へ上がったからでしょう」
香織さんが割って入る。
「お茶を一杯出しただけよ。すぐに帰ったわ」
「責めているわけじゃないよ」
夫の声は穏やかだった。
だからこそ、何を考えているのか分からなかった。
「ただ、確認しておきたかったんだ」
夫が俺を見る。
「昨夜、香織に何を届けてくれたんだっけ?」
頭の中が真っ白になった。
香織さんから、答えを聞けていない。
名札。
エプロン。
勤務表。
どれもありそうで、どれも違う気がした。
夫は黙ったまま、俺の返事を待っている。
香織さんを見ることはできなかった。
見れば、口裏を合わせようとしていることが伝わってしまう。
「エプロンです」
俺は答えた。
夫の笑顔が消えた。
「そうか」
短く言ってから、夫は香織さんへ顔を向けた。
「香織は、名札を届けてもらったと言っていたけど」
静かな売り場で、パックを並べる音だけが聞こえた。
香織さんの黒いローファーが、半歩後ろへ下がる。
履き口からのぞく白いリブソックスが、わずかに震えていた。
夫は、俺と香織さんを交互に見た。
「どちらが本当なんだ?」
誰も答えられなかった。
昨夜から重ねてきた嘘が、香織さんの白い靴下の足元で、音もなく崩れ始めていた。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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