約束の時間より、二十分も早く着いてしまった。
駅から少し離れたファミリーレストラン。
香織さんの夫が指定したのは、店の一番奥にある窓際の席だった。
夫はすでに座っていた。
昨日と同じ黒いシャツではなく、濃紺のジャケットを着ている。
テーブルの上には、手をつけていないコーヒーが一杯。
その隣に、小さな白い布袋が置かれていた。
「こんばんは、悠真君」
夫は立ち上がらず、向かいの席を手で示した。
「座ってくれ」
「失礼します」
椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。
店内には家族連れや仕事帰りの客がいる。
明るい照明の下で向き合っているのに、誰にも助けを求められない場所だった。
「香織さんは」
「家にいるよ」
夫は静かに答えた。
「今日は仕事を休ませた。君と顔を合わせれば、また話を合わせようとするかもしれないからね」
「体調は大丈夫なんですか」
「妻の心配をする前に、自分の心配をした方がいいんじゃないか」
責める口調ではなかった。
それだけに、返す言葉が見つからない。
夫はコーヒーカップへ触れず、俺の顔を見つめた。
「昨夜のメッセージにも書いたが、君たちの過去のやり取りは読んでいない」
「どうしてですか」
「読む前に、君の口から聞きたかった」
夫の右手が、白い布袋の上へ置かれる。
「香織とは、いつからだ?」
何をもって始まりとするのか分からなかった。
初めて閉店後に二人きりで話した夜。
初めて白い靴下に触れた夜。
それとも、夫のいない家で朝を迎えた昨日。
「答えられません」
「覚えていないのか」
「どこからが裏切りだったのか、俺にも分からないんです」
夫の眉がわずかに動いた。
「裏切りだったとは思っているんだね」
「ご主人にとっては、そうだと思います」
「君にとっては違うのか?」
俺は膝の上で両手を握った。
「香織さんを好きになったことまで、間違いだったとは思えません」
夫はしばらく黙っていた。
店員が水を置き、注文を尋ねる。
俺は何も考えられないまま、夫と同じコーヒーを頼んだ。
店員が離れると、夫は白い布袋の紐をほどいた。
中から取り出したものを、テーブルの中央へ静かに置く。
白いリブソックスだった。
左右二枚の靴下が、きれいに重ねられている。
足首までの細い縦模様。
見間違えるはずがなかった。
昨日まで香織さんが履き続けていた白い靴下。
俺の手の中で温まり、夫の車へ乗り込むまで彼女の両足を包んでいたもの。
今はもう冷たく、夫と俺の間に置かれている。
「これを知っているか」
喉が乾いた。
「昨日、香織さんが履いていたものですよね」
「それだけか?」
夫の指先が、重ねられた靴下の端へ触れる。
「君は、これに触れたのか」
否定することはできた。
けれど、これ以上嘘を重ねても、何も守れない気がした。
「はい」
自分の声が、遠く聞こえた。
夫の指が止まる。
「どこで?」
「店の休憩室です」
「昨日だけか?」
「いいえ」
夫の表情は変わらない。
けれど、白い靴下を押さえる指先だけが少し強くなった。
「妻の足に触れたのか」
「白い靴下の上からです」
「そんな違いに意味があると思っているのか?」
「思っていません」
「では、なぜわざわざ靴下の上からだと言った?」
答えられなかった。
裸足ではなかったことが、俺にとっては大きな意味を持っていた。
けれど、それを夫へ説明する言葉などあるはずがない。
「昨夜、家へ着いても、香織はこれを脱ごうとしなかった」
夫は白い靴下から目を離さずに言った。
「玄関でローファーを脱いだあと、そのままリビングへ入った。洗濯するから脱ぐように言っても、しばらく両足を隠していたよ」
香織さんが、白い靴下の両足をソファの下へ引く姿が浮かんだ。
俺の手の感触を残しておきたかったのだろうか。
そう思っただけで、夫の前にいることを忘れそうになる。
「君に触れられたから、脱ぎたくなかったのか?」
夫の問いに、俺は視線を落とした。
「分かりません」
「君たちにとって、この靴下は何なんだ」
白い生地の細い縦模様が、照明の下でくっきり見える。
「香織さんが、自分で選んだものです」
「靴下くらい、誰だって自分で選ぶだろう」
「そういう意味じゃありません」
言ってはいけないと思った。
けれど、もう嘘をつかないと決めたはずだった。
「俺に見せるために選んだと、香織さんが言いました」
夫の顔から、わずかに血の気が引いた。
「本人が、そう言ったのか」
「はい」
夫は初めて俺から目をそらした。
怒鳴られるより、その沈黙の方が苦しかった。
夫は重ねられた白い靴下を見下ろした。
「香織は、以前は白い靴下ばかり履く女ではなかった」
俺は顔を上げた。
「最近、金曜日になると決まって白い靴下を選ぶようになった。新しいものまで何足も買っていたよ」
知らなかった。
俺が店へ入る金曜日に合わせ、香織さんは家で靴下を選んでいた。
その姿を、夫も見ていたのだ。
「妻が若返ったようで、私は嬉しかった」
夫が自嘲するように笑う。
「まさか、その理由が自分ではないとは思わなかった」
胸の奥が痛んだ。
夫の言葉に傷つく資格など、俺にはない。
「ご主人は、俺にどうしてほしいんですか」
「香織と二度と会わないでほしい」
迷いのない答えだった。
「同じ店で働いています」
「どちらかが辞めればいい」
「香織さんに仕事を辞めさせるんですか」
「君が辞めても構わない」
言葉の一つ一つが、逃げ道を閉ざしていく。
「約束はできません」
俺が答えると、夫は初めて険しい表情を見せた。
「君には、私たちの家庭を壊してまで妻を幸せにできるのか?」
「分かりません」
「分からないのに、手放せないと言うのか」
「香織さんを、物みたいに手放すとか受け取るとか、俺には決められません」
夫の目を見た。
「決めるのは香織さんです」
夫は何も言わなかった。
テーブルへ運ばれた俺のコーヒーから、湯気が立っている。
夫のカップは、もう冷めていた。
「同じことを、昨夜香織にも言われたよ」
低い声だった。
「私はあなたの持ち物ではない、と」
胸が大きく鳴った。
香織さんは夫の前で、そこまで言ったのだ。
「ただし、妻は君を選ぶとも言わなかった」
夫は白い靴下を布袋へ戻した。
「泣きながら、何も決められないと言った」
細い紐が締められ、白い生地が見えなくなる。
「だから今夜、君にも同じことを聞きたかった」
「同じこと?」
「何も失わずに、この関係だけを続けたいのか。それとも、失う覚悟があるのか」
俺は答えられなかった。
香織さんを求める気持ちは本物だった。
けれど、彼女の家庭も仕事も壊した先に、何が残るのかは分からない。
夫は白い布袋を手に取り、席を立とうとした。
そのとき、テーブルの上の俺のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、息が止まる。
香織さん。
夫にも、その名前が見えていた。
昨夜預けたスマートフォンは、もう香織さんへ返されている。
着信は止まらない。
夫は再び椅子へ腰を下ろした。
「出ていいよ」
「でも」
「私の前で出なさい」
夫の手には、白い靴下の入った布袋が握られている。
俺は震える指で通話ボタンへ触れた。
「もしもし」
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、押し殺した香織さんの声が耳へ届く。
「悠真君……そこに、夫もいるの?」
俺が答えるより先に、夫が口を開いた。
「いるよ、香織」
電話の向こうで、香織さんが息をのんだ。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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