「夫よ」
香織さんの声が、かすかに震えていた。
閉じた扉の向こうから、もう一度男の声が聞こえる。
「香織、いるのか?」
俺は白い布袋をエプロンのポケットの奥へ押し込んだ。
中に入っているのは、ホテルの夜に香織さんが履いていた三つ折りの白いリブソックス。
夫に触れられたあと、見つからないように隠していたという靴下だった。
それを今、俺が隠している。
持ち主である香織さんの夫から。
「どうしよう」
香織さんが俺を見る。
「普通にしてください」
そう答えた自分の声が、思っていたよりもかすれていた。
扉の取っ手が動いた。
香織さんがとっさに俺から離れ、積まれた段ボールへ手を伸ばす。
俺も何事もなかったように、棚の商品を確認するふりをした。
扉が開く。
入ってきたのは、四十代半ばほどの男だった。
落ち着いた色のシャツに、仕事帰りらしい黒いスラックス。
香織さんの夫。
初めて会う相手なのに、その人の左手にある結婚指輪へ真っ先に目が向いた。
香織さんと同じものだった。
「こんなところにいたのか」
夫は安心したように笑った。
「電話しても出ないから、何かあったのかと思ったよ」
「ごめんなさい。スマートフォン、ロッカーに置いたままだったの」
香織さんはいつもの穏やかな声で答えた。
けれど、エプロンの前で組んだ指先だけが強く絡み合っている。
「迎えに来てくれたの?」
「雨が降りそうだからな。車で来た」
夫はそう言ってから、俺の存在に気づいた。
「こちらは?」
「アルバイトの悠真君。同じ売り場で働いているの」
香織さんが俺を紹介する。
その声を聞いただけで、胸の奥が締めつけられた。
俺はエプロンのポケットに入った白い布袋を意識しながら頭を下げた。
「悠真です。いつも香織さんに仕事を教えてもらっています」
「君が悠真君か」
夫が親しみのある笑顔を浮かべた。
その言い方に、俺は顔を上げる。
「香織から、ときどき話を聞いているよ。若いのに真面目で、よく気がつく子がいるって」
香織さんが俺のことを、家で話していた。
嬉しさより先に、罪悪感が込み上げた。
「妻がいつもお世話になっています」
夫が右手を差し出した。
断ることなどできなかった。
俺も手を伸ばし、その手を握る。
温かく、力のある手だった。
昨夜、香織さんの白い靴下越しの足首に触れたという手。
そして今、俺のエプロンのポケットには、その白い靴下が隠されている。
「こちらこそ、お世話になっています」
俺が答えると、夫は穏やかにうなずいた。
その視線が、ふと俺のエプロンへ下がった。
白い布袋の端が、ポケットから少しだけのぞいている。
「それは?」
心臓が大きく鳴った。
俺が答えるより先に、香織さんが口を開いた。
「作業で使った布巾よ。悠真君に片づけをお願いしたの」
「そうか」
夫は特に疑う様子もなく視線を戻した。
香織さんと目が合う。
一瞬だけだったが、彼女の瞳には恐怖と、それとは違う熱が浮かんでいた。
「それじゃあ、帰ろうか」
「ええ」
夫が香織さんの肩へ持ってきた薄手の上着を掛ける。
香織さんは黒いローファーの足を揃え、俺へ小さく頭を下げた。
ローファーの履き口から、白いリブソックスがのぞいている。
ホテルで履いていた三つ折りの靴下は俺のポケットにある。
けれど今、夫の隣に立っている香織さんの足にも、別の白い靴下が履かれていた。
「お疲れさま、悠真君」
「お疲れさまでした」
二人がバックヤードを出ていく。
夫に寄り添って歩く香織さんの後ろ姿を、俺は黙って見送った。
扉が閉まったあと、ポケットから白い布袋を取り出した。
夫と握手をした手で、それを強く握り締める。
俺は一体、何をしているのだろう。
その夜、香織さんからメッセージが届いた。
『さっき渡したもの、捨てて』
短い一文だった。
やはり夫に見つかりそうになったことが怖かったのだろう。
俺が返信を打とうとすると、続けて新しいメッセージが届いた。
『ごめんなさい。今のは忘れて』
さらに数秒後。
『やっぱり、捨てないで』
画面を見つめたまま、俺は動けなかった。
『あれを悠真君が持っていると思うと、怖いのに少し安心するの』
俺は白い布袋を机の上に置いた。
『大切にします』
それだけを送った。
すぐに既読がついたが、香織さんから返事はなかった。
次の金曜日。
閉店後の店内で、香織さんは俺を避けるように仕事をしていた。
話しかけても必要なことしか答えない。
目が合いそうになると、先に視線をそらす。
夫に会って以来、俺もどんな顔をして彼女を見ればよいのか分からなかった。
片づけを終え、従業員通路を歩いていると、休憩室の扉が少しだけ開いていた。
中から香織さんの声がする。
「悠真君」
足を止める。
「入って」
休憩室には誰もいなかった。
香織さんは窓際の折り畳み椅子に座っている。
「扉、閉めてもらえる?」
俺が扉を閉めると、香織さんは自分の隣の椅子を指さした。
「この前は、ごめんなさい」
「何がですか」
「夫の前で、とっさに嘘をつかせてしまったこと」
「香織さんが謝ることじゃありません」
「白い靴下、持ってきた?」
俺は鞄から白い布袋を取り出した。
捨てろと言われるかもしれないと思い、持ち歩いていた。
香織さんは布袋を見つめたが、受け取ろうとはしなかった。
「まだ、持っていてくれたのね」
「捨てないでって言ったでしょう」
「そうだったわね」
安心したような、それでいて恥ずかしそうな笑顔だった。
「夫と握手したときも、それを持っていたの?」
「エプロンのポケットに入っていました」
「夫の目の前で?」
「はい」
香織さんの頬が赤くなる。
「おかしいわね。怖かったはずなのに、それを聞いたら胸が熱くなる」
彼女は椅子に座ったまま、左右の黒いローファーをゆっくり脱いだ。
床に左右のローファーを、きれいに並べて置く。
現れた両足には、仕事中ずっと履いていた白いリブソックス。
足首までの短い丈で、細い縦模様がつま先まで続いている。
「今日の靴下も白なんですね」
「あなたが見ると思って選んだの」
香織さんは両足を揃えた。
「でも、今日はあげないわ」
「どうしてですか」
「これは、このまま履いて帰るから」
「ご主人のところへ?」
香織さんは黙ってうなずいた。
「その前に、悠真君に触れてほしいの」
俺は香織さんの前へ膝をついた。
「本当にいいんですか」
「私からお願いしているのよ」
香織さんが右足を持ち上げ、俺の膝へ預けた。
俺は白い生地に包まれた足を両手で支える。
一日中働いたあとの温度が、柔らかなリブ生地を通して手のひらへ伝わってきた。
左足も俺の膝へ重ねられる。
香織さんは恥ずかしそうにしながらも、足を引こうとはしなかった。
「夫に会ったあとでも、こんなことをしてくれるのね」
「ご主人に会ったから、余計に香織さんを離したくないんです」
「そんなことを言われたら、本当に悪い妻になってしまうわ」
「俺の前では、香織さんでいてください」
俺は白い靴下の上から、彼女の足をゆっくり包み込んだ。
香織さんが小さく息を漏らし、椅子の背へ身体を預ける。
「帰る前に、あなたの手を覚えておきたかったの」
「覚えて、どうするんですか」
「夫の隣に座っても、今触れているのは悠真君だって思い出すの」
その言葉に、俺の指先へ力が入った。
香織さんのスマートフォンが震えた。
画面に表示されたメッセージを見て、彼女の表情が固まる。
『店の前に着いたよ』
夫からだった。
「迎えに来ています」
俺が手を離そうとすると、香織さんの両足が俺の膝を挟んだ。
「待って」
「でも、早く行かないと」
「あと十秒だけ」
香織さんは俺をまっすぐ見つめた。
「夫が外で待っている間だけ、私はあなたのものにして」
俺は答える代わりに、白い靴下に包まれた両足をもう一度強く抱き締めた。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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