「朝まで、あと六時間しかないわ」
香織さんの声が、静かなリビングに響いた。
スマートフォンの画面には、夫から届いたメッセージが残っている。
『明日の予定が変わった。朝一番の電車で帰ることになったよ』
俺は時計を見た。
午前零時を少し過ぎたところだった。
「六時間しかないんじゃありません」
「え?」
「まだ六時間もあります」
香織さんが俺を見る。
「帰らないの?」
「帰ってほしいんですか」
「帰ってほしくない。でも、夫に見つかったら……」
「その前に帰ります」
「本当に?」
「ご主人が帰るまでには、必ず」
俺が答えると、香織さんは胸の前で両手を握った。
安心したようにも、寂しそうにも見えた。
リビングには、俺たちが過ごした時間の痕跡が残されている。
ソファから落ちたクッション。
テーブルに置かれた二つのマグカップ。
無造作に脱いだ俺の上着。
少し位置のずれた夫婦の写真。
そして、白いリブソックスを履いたままの香織さん。
「まず、片づけましょう」
俺が立ち上がると、香織さんも慌ててソファから下りた。
白い靴下の両足が床へ着く。
仕事中から履いている生地には細かな皺が刻まれ、足首の部分が少しだけずれていた。
「その靴下も、履き替えた方がいいんじゃないですか」
「どうして?」
「俺が触った跡が残っています」
香織さんは自分の足元を見つめた。
「夫には分からないわ」
「でも、ご主人が触れたら」
その言葉に、香織さんの表情が揺れる。
しばらく黙ったあと、彼女は両足を揃えた。
「それでも、今は脱ぎたくないの」
「怖くないんですか」
「怖いわ。でも、あなたが帰ったあとまで、今夜のことを残しておきたい」
白い靴下のつま先が、俺の足へそっと触れた。
「夫が帰ってくる直前まで、このままでいたいの」
香織さんは自分の夫を裏切っている。
俺も、その裏切りに加わっている。
分かっているのに、白い靴下越しに伝わる彼女の温度を拒むことができなかった。
俺たちは黙って部屋を片づけ始めた。
クッションを元の場所へ戻す。
俺の上着と鞄を玄関近くへ移す。
夫婦の写真を、棚に残った埃の跡へ重なるように置き直す。
二つのマグカップを台所へ運んだ。
「俺が洗います」
「いいわ。座っていて」
香織さんは袖をまくり、流し台の前に立った。
水の音がする。
白い靴下の足で台所に立つ後ろ姿は、どこにでもいる普通の妻に見えた。
数時間後に夫が帰ってくれば、彼女はまたこの場所で朝食を用意するのだろう。
けれど今、洗っているのは夫のものではない。
自分と、夫ではない男が使った二つのマグカップだった。
「香織さん」
「なに?」
「ご主人に会ったら、どんな顔をするんですか」
水の音が止まる。
香織さんは振り返らなかった。
「いつもの顔をするわ」
「いつもの妻に戻るんですね」
「戻らないといけないでしょう」
「今夜のことも忘れて?」
「忘れられると思う?」
香織さんが蛇口を閉め、ようやく俺を見た。
「この白い靴下を見るたびに、思い出すわ」
洗い終えたマグカップを布巾で拭く。
一つは棚へ戻された。
もう一つも戻そうとして、香織さんの手が止まった。
「それ、俺が使った方ですよね」
「ええ」
「どうしたんですか」
「同じ場所へ戻したら、夫が使うかもしれない」
「洗ったんだから、分からないでしょう」
「分かっているけど……今は嫌なの」
香織さんは俺が使ったマグカップを、棚の奥へ隠すように置いた。
それからリビングへ戻り、ソファへ腰を下ろす。
「片づけは終わりました」
「まだ一つ残っているわ」
「何ですか」
香織さんは自分の隣を指さした。
「悠真君との時間」
俺が座ると、香織さんは身体を寄せてきた。
頭が肩へ載せられる。
白い靴下の両足がソファへ上げられ、俺の腿へ重なった。
「さっきまで、あと六時間しかないと思っていたの」
「今は?」
「六時間も一緒にいられると思っている」
「俺と同じですね」
「悪いことばかり、似てしまうのね」
香織さんが小さく笑う。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「悠真君は、私とどうなりたいの?」
突然の問いに、答えが出なかった。
「今夜だけじゃ嫌です」
「それなら、いつまで続けるの?」
「分かりません」
「夫と別れてほしい?」
白い靴下のつま先に力が入る。
俺はその足を両手で包んだ。
「今すぐ、そんなことは言えません」
「どうして?」
「ご主人と会ったからです」
夫の手の温かさを思い出す。
香織さんのことを心配し、雨が降りそうな夜に迎えへ来た男。
その夫と別れてほしいと、簡単に言うことなどできなかった。
「優しいのね」
「違います。怖いだけです」
「何が?」
「香織さんが俺を選んだあと、後悔することが」
香織さんは長い間、何も言わなかった。
やがて、白い靴下の両足を俺の手から抜き、床へ下ろした。
嫌われたのかと思った。
しかし彼女は俺の前へ膝をつき、両腕を背中へ回した。
「今は、選べないわ」
耳元で声がする。
「でも、あなたを失いたくない」
俺も香織さんを抱き締めた。
「それは、ずるいですよ」
「分かっている」
「ご主人も失いたくないんでしょう」
「ええ」
「俺も失いたくない?」
「失いたくない」
香織さんの声が震えていた。
答えを出せないまま、俺たちは長い時間抱き合っていた。
午前三時を過ぎた頃、香織さんは俺の肩へ頭を預けたまま眠ってしまった。
俺もいつの間にか目を閉じていた。
短い眠りから目を覚ますと、部屋のカーテンが薄い青色に変わり始めている。
時計は午前五時二十分を示していた。
俺の腿には、香織さんの白い靴下の両足が載ったままだった。
彼女はソファへ身体を預け、静かな寝息を立てている。
乱れた白いリブ生地。
足首に残った細かな皺。
一晩中、俺だけが見て触れていた白い靴下。
あと数時間もすれば、その足は夫の前を歩く。
「香織さん」
肩を揺らすと、香織さんがゆっくり目を開けた。
「何時?」
「五時二十分です」
香織さんの顔から眠気が消える。
「もう帰らないと」
「はい」
俺が立ち上がると、腿から白い靴下の両足が離れた。
その温度が消えていくことが、思っていた以上に寂しかった。
香織さんは洗面所へ行き、髪と服装を整えた。
戻ってきた彼女は、白い靴下だけを履き替えていなかった。
「本当に、そのままでご主人を迎えるんですか」
「ええ」
「俺が触った靴下ですよ」
「だから、このままがいいの」
香織さんは足元を見ながら答えた。
「夫の前で普通にしていられるか、自分でも分からない。でも、この白い靴下にあなたの手が残っていると思えば、きっと耐えられる」
玄関へ向かう。
夫の革靴の隣で、自分の靴を履いた。
昨夜、この家へ入ったときよりも指が震えていた。
靴紐を結び終えて立ち上がると、香織さんが目の前にいた。
白いリブソックスの両足で、冷たい玄関の床に立っている。
「ここで、夫を毎朝見送るの」
「今日は俺を見送るんですね」
「二度と、こんなことはできないかもしれない」
「後悔していますか」
香織さんは首を横に振った。
「来てくれて、ありがとう」
彼女の指が俺の頬へ触れる。
扉を開ければ、俺たちはまた人妻パートとアルバイトへ戻る。
その前に、短く唇が重なった。
「行ってきます」
俺が言うと、香織さんの目に涙が浮かんだ。
「それは、夫がいつも言う言葉よ」
「すみません」
「謝らないで」
香織さんは涙を拭い、笑顔を作った。
「いってらっしゃい、悠真君」
俺は玄関を出た。
外はまだ薄暗く、住宅街は静まり返っている。
門を抜け、振り返る。
香織さんが扉の隙間から俺を見ていた。
足元には、白い靴下がのぞいている。
扉がゆっくり閉まった。
俺は駅へ向かって歩き始めた。
角を一つ曲がったとき、後ろから車の音が聞こえた。
何となく振り返る。
一台のタクシーが、香織さんの家の前で止まった。
後部座席の扉が開く。
降りてきた男の顔を見て、息が止まった。
香織さんの夫だった。
時計を見る。
午前五時五十八分。
七時より一時間も早い。
夫は鞄を持ち、玄関へ向かっていく。
俺は電柱の陰へ身体を隠した。
もし、あと数分遅く家を出ていたら。
玄関で鉢合わせしていた。
夫が鍵を取り出す。
扉が開いた。
その向こうに、一晩中俺と過ごした香織さんがいる。
白い靴下を履いたまま。
扉が閉まる。
俺はその場から動けなかった。
十分ほどして、スマートフォンが震えた。
香織さんからだった。
『夫が帰ってきた』
続けて、もう一通届く。
『玄関に知らない靴の跡があるって言ってる』
胸の奥が冷たくなる。
雨は降っていない。
けれど、早朝の湿った地面を歩いた俺の靴底が、玄関に薄い跡を残していたらしい。
『何て答えたんですか』
既読はついたが、返信がない。
一分。
二分。
三分。
ようやく新しいメッセージが届いた。
『昨夜、誰か家に来たのかって聞かれている』
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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