閉店後、人妻パートの白い靴下に触れた|第16話「一人で脱いだ白い靴下」

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香織さんが店を出てからも、俺と夫はしばらく席を立てなかった。

テーブルの上には、冷めたコーヒーが二杯。

けれど、さっきまで中央にあった白い布袋は、もうない。

香織さんが自分の手で取り戻し、ホテルへ持っていった。

「追わないんだな」

夫が静かに尋ねた。

「追わないでと言われましたから」

「私も同じだ」

そう答えながら、夫は何度も入口の扉へ目を向けていた。

俺も同じだった。

今すぐ店を飛び出し、香織さんを捜したかった。

どこのホテルにいるのか聞いて、せめて一人にしないと伝えたかった。

けれど、それをすれば、香織さんが初めて自分で選んだ夜を奪うことになる。

「もし香織から連絡が来ても、居場所は聞かないでくれ」

夫が立ち上がった。

「ご主人も、聞かないんですか」

「聞きたいよ」

夫は財布から紙幣を取り出し、二人分の伝票の下へ置いた。

「でも、今夜まで妻の言葉を疑ったら、もう何も残らない」

夫は一人で店を出ていった。

俺は空になった中央の椅子を、しばらく見つめていた。

その夜、自分の部屋へ戻っても眠れなかった。

スマートフォンを机の上へ置いては手に取り、画面が暗くなるたびに電源ボタンを押す。

香織さんの最後のメッセージには、返信できないままだった。

『次に会うときは、私が決めたあとです』

待つことしかできない。

そう分かっているのに、指は何度も文字を打ちかけた。

午前一時三十八分。

スマートフォンが震えた。

香織さんから、一枚の写真が届いている。

ホテルの部屋らしい、濃い色の絨毯。

ベッドの脇には、左右の黒いローファーがきれいに揃えて置かれていた。

その少し奥に、椅子へ腰掛けた香織さんの両足が写っている。

白いリブソックスを履いた両足。

ファミリーレストランで、夫と俺の前に座っていたときと同じものだった。

『ホテルに着きました』

短い一文に、すぐ既読をつける。

『無事でよかったです』

それだけ送った。

場所を尋ねないよう、何度も文章を読み返してから送信した。

すぐに、着信画面へ香織さんの名前が表示された。

「もしもし」

『起きていたのね』

「眠れるわけないでしょう」

電話の向こうで、香織さんが小さく笑った。

疲れた、寂しそうな笑い声だった。

「ご主人にも連絡しましたか」

『ホテルに着いたことだけ伝えたわ。場所は教えていないの』

「そうですか」

『聞かないのね』

「聞いたら、行ってしまうから」

沈黙のあと、香織さんが息を吐いた。

『ありがとう』

俺は送られてきた写真をもう一度開いた。

両足の白い靴下だけが、暗い部屋の中で浮かんで見える。

「まだ、履いているんですね」

『ええ』

「今日は誰のためでもないって、言っていましたよね」

『そう言ったわ』

「それなのに、俺へ見せるんですか」

香織さんはすぐに答えなかった。

『一人でいると、本当に誰のためでもなくなってしまうでしょう』

その声が、かすかに震えていた。

『そうしたら、急に怖くなったの』

「何がですか」

『白い靴下を脱いだあと、私には何が残るのか分からなくなった』

胸が締めつけられた。

『夫の前では妻で、店ではパート従業員で、悠真君の前では白い靴下を履いた香織だった』

「俺は、靴下がなくても香織さんを」

『今は言わないで』

優しい声で遮られた。

『そう言ってもらえたら、またあなたに答えを預けてしまうから』

俺は唇を閉じた。

電話の向こうで、ベッドが小さくきしんだ。

『今から、脱ぐわ』

心臓が大きく鳴った。

「俺と話したままでいいんですか」

『触れてもらうためじゃない。見せるためでもない』

香織さんの指が、白いリブ生地へ触れる気配がした。

『一人で脱げることを、悠真君に聞いていてほしいの』

微かな衣擦れが、電話越しに届く。

まず右足の履き口を、両手でゆっくり下ろしているのだろう。

細いリブ模様が足首を離れ、かかとを越え、つま先から抜けていく。

香織さんが小さく息を吐いた。

『右足、脱いだわ』

「はい」

『何も言わないのね』

「今は、香織さんが決める時間だから」

また衣擦れの音がする。

今度は左足。

俺が何度も両手で包んだ白い靴下の足を、香織さん自身の指がほどいていく。

『左も、脱いだ』

その言葉を聞いた瞬間、寂しさと安堵が同時に込み上げた。

香織さんは誰にも触れさせず、自分の手で両足の白い靴下を脱いだ。

『二枚、並べて置いたわ』

「布袋に入れるんですか」

『いいえ。昨日まで履いていたものは、あの袋の中。この靴下は、今夜の私の隣に置いておく』

「違う靴下なんですね」

『昨日までの靴下には、悠真君の手と、夫の疑いが残っている』

香織さんの声が少しだけ強くなる。

『でも、今日の靴下には、私が二人の前で本当のことを言った記憶が残っているの』

俺は何も返せなかった。

白い靴下は同じように見えても、香織さんにとっては一足ずつ違う夜を覚えている。

『悠真君』

「はい」

『明日の朝、家へ帰るわ』

指先が冷たくなった。

「ご主人のところへ戻るんですか」

『夫を選ぶために帰るんじゃない』

香織さんは静かに答えた。

『今まで重ねた嘘を、二人で終わらせるために帰るの』

「そのあと、俺とは」

『今は約束できない』

覚悟していた答えなのに、胸が痛んだ。

『でも、逃げたまま終わらせたくない。夫と話したあと、悠真君にも私の言葉で伝える』

「待っています」

『待たなくてもいいのよ』

「それも、俺が決めます」

しばらく沈黙が続いた。

やがて香織さんが、少しだけ笑った。

『そうね。私だけが決めるんじゃないものね』

通話が終わったのは、午前二時を過ぎたころだった。

俺は机にスマートフォンを置いた。

もう、画面を何度も確かめることはしなかった。

夜が明ける直前、短い眠りから目を覚ます。

新しいメッセージが二通届いていた。

一通目には、ホテルの白いシーツの上へ並べられた左右の白いリブソックスが写っている。

履き口も、かかとも、つま先も、きれいに揃えられていた。

その隣には、紐を結んだ白い布袋。

『今から家へ帰ります』

続く一文を開く。

『妻としてではなく、香織として夫と話してきます』

俺は写真の中の二足分の白い靴下を見つめた。

昨日までの秘密を包んだ一足と、自分で脱いだ今夜の一足。

どちらも、もう俺のものではない。

返信を打とうとしたとき、三通目が届いた。

『次の金曜日、白い靴下を履くかどうかは、その朝の私が決めるわ』


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※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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