『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』第3話
誰もいない給湯室
給湯室の照明は、白く冷たい光を放っていた。
昼間なら誰かがコーヒーを入れ、食器を洗い、短い休憩を取っている場所だ。
けれど午後八時半を過ぎた今、そこにいるのは水城真帆と三浦遼だけだった。
窓のない小さな空間に、外の雨音が遠く響いている。
真帆は棚から二つのマグカップを取り出した。
「紅茶でいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方です。仕事まで手伝ってもらったんですから」
真帆は電気ケトルに水を入れ、スイッチを押した。
黒いパンプスは自分の机の下へ置いたままだ。
薄いベージュのスーツ姿に、真っ白な靴下。
昼間の彼女からは想像できない取り合わせなのに、不思議と違和感はなかった。
遼が目をそらすと、真帆が振り返った。
「さっきから、気を遣わせていますよね」
「そんなことは」
「足元を見ないようにしてくれているでしょう?」
すべて気づかれていた。
遼は返事に困り、壁に掛けられた小さな時計へ目を向けた。
真帆は責める様子もなく、静かに笑った。
「見てもいいですよ」
「え?」
「変な意味ではなくて。隠される方が、かえって恥ずかしいですから」
彼女はそう言いながら、白い靴下の足先をわずかに後ろへ引いた。
言葉とは裏腹に、やはり恥ずかしいのだろう。
その仕草が、遼には妙に彼女らしく思えた。
「本当に、似合っていると思います」
遼が言うと、真帆は困ったように眉を下げた。
「また、そういうことを言う」
「すみません」
「だから、嫌だとは言っていません」
それは、さっきオフィスでも聞いた言葉だった。
けれど今度の声は、あのときよりも少し柔らかかった。
結婚指輪の向こう側
湯が沸き、給湯室に小さな電子音が鳴った。
真帆はティーバッグを入れたマグカップへ、ゆっくりと湯を注いだ。
立ちのぼる湯気の向こうで、彼女の横顔がぼんやりとかすむ。
「砂糖は?」
「少しだけ」
「私も同じです」
真帆がスプーンで紅茶をかき混ぜる。
白い指に付けられた細い結婚指輪が、照明を受けて光った。
遼の視線に気づいたのか、真帆の手が止まった。
「三浦さんは、結婚しないんですか?」
「今のところ予定はありません」
「恋人は?」
「いません」
「意外です」
「そうですか?」
「優しいし、仕事も真面目ですから」
「それなら、水城さんだって」
そこまで言って、遼は口をつぐんだ。
真帆は既婚者だ。
褒め言葉の続きを口にすれば、自分の気持ちまで伝わってしまいそうだった。
「私だって、何ですか?」
真帆が尋ねた。
「いえ……何でもありません」
「気になります」
彼女はマグカップを持ったまま、遼の返事を待っている。
その表情は、職場で見せる落ち着いた先輩の顔ではなかった。
一人の女性として、自分がどう見えているのかを知りたがっているように思えた。
「水城さんは、きれいな人だと思います」
真帆は何も言わなかった。
「仕事もできるし、周りにも気を配れる。だから、ご主人も――」
「主人は、そんなふうには見ていません」
静かな声だった。
遼は言葉を止めた。
真帆は自分の左手へ目を落とした。
「結婚したころは、もっと話をしていたんです。一緒に食事をして、休みの日には出かけて」
紅茶の表面が、彼女の手の中でかすかに揺れている。
「でも、いつからでしょうね。話しかけても返事だけになって、私が何を着ていても、髪を切っても、気づかなくなって」
「水城さん……」
「だから今日、三浦さんに白い靴下が似合うと言われて、驚いたんです」
真帆は寂しそうに笑った。
「そんな小さなことを誰かに見てもらったのが、久しぶりだったから」
遼の胸が痛んだ。
彼女が欲しかったのは、派手な言葉ではない。
ただ自分を見てくれる誰かがいるという、当たり前の実感だった。
「僕は見ています」
考えるより先に、言葉が出ていた。
真帆が顔を上げる。
「水城さんが頑張っていることも、疲れているときに無理して笑うことも」
遼はもう、視線をそらさなかった。
「今日の白い靴下も」
真帆の瞳がかすかに揺れた。
「そんなに見られたら、困ります」
「すみません」
「謝ってほしいわけではありません」
彼女はゆっくりと首を横に振った。
「ただ……嬉しくなってしまうから」
触れた指先
給湯室に、再び沈黙が訪れた。
先ほどまで遠く感じられた雨音が、二人の間へ入り込んでくる。
真帆が遼のマグカップを差し出した。
「熱いので、気をつけて」
「ありがとうございます」
カップを受け取ろうとした遼の指が、真帆の指先に触れた。
ほんの一瞬のことだった。
それなのに、二人ともすぐには手を離さなかった。
真帆の指は、紅茶の熱とは違う温かさを持っていた。
遼が顔を上げると、彼女もこちらを見ていた。
距離が近い。
給湯室の狭さだけが理由ではなかった。
互いの呼吸が分かるほど近くにいながら、どちらも動くことができない。
真帆の唇が、何かを言おうとわずかに開いた。
そのとき、彼女のスマートフォンが鳴った。
真帆は驚いたように指を離した。
画面には、夫からの着信が表示されていた。
彼女は数秒間その名前を見つめ、やがて電話を取った。
「もしもし」
声が、仕事中の落ち着いたものへ戻る。
「まだ会社。電車が止まっているから……うん。分かった」
短いやり取りだった。
電話を切った真帆は、しばらく画面を見つめていた。
「迎えに来てくれるんですか?」
「いいえ。明日の朝も早いから、先に寝るそうです」
「そうですか」
真帆はスマートフォンを伏せた。
「心配しているのかと思いました?」
遼は答えられなかった。
真帆は笑ったが、その笑顔には諦めがにじんでいた。
「私が誰と残っているのかも、聞きませんでした」
その言葉が、狭い給湯室に静かに落ちた。
遼は手にしたマグカップを置いた。
「僕は心配です」
真帆がゆっくりと顔を上げた。
「水城さんが無事に帰れるかも、今どんな気持ちでいるのかも」
「三浦さんは、どうしてそこまで優しくするんですか?」
もう、普通の同僚だからという答えではごまかせなかった。
遼が口を開こうとした瞬間、真帆の足がわずかに滑った。
床に落ちた水滴を、白い靴下で踏んでしまったらしい。
「きゃっ」
遼はとっさに彼女の腕をつかんだ。
真帆の体が、その胸元へ寄せられる。
ほのかな紅茶の香りと、彼女の髪の匂いが重なった。
遼の手は真帆の腕を支え、真帆の片手は遼のシャツをつかんでいる。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
答えた真帆は、離れようとしなかった。
遼も手を放せなかった。
見つめ合ったまま、時間だけが過ぎていく。
「三浦さん」
彼女が初めて、下の名前を呼びかけるような近さでささやいた。
その瞳には、戸惑いと寂しさ、そして別の感情が混じっていた。
遼がわずかに顔を近づける。
けれど真帆は、胸元に置いていた手で彼をそっと押し戻した。
「ごめんなさい」
「いえ、僕の方こそ」
「違うんです」
真帆は首を横に振った。
「嫌だったんじゃありません」
その言葉の方が、遼の心を強く揺らした。
真帆は目を伏せ、自分の足元を見た。
水滴を踏んだ白い靴下の底が、少し濡れている。
「靴下、濡れてしまいました」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「このままでは、気持ち悪いですね」
そして真帆は、遼の目の前でゆっくりと片足を上げた。
給湯室で濡れてしまった真帆の白い靴下。履き替えもなく、パンプスにも戻れない彼女は、遼の前である決断をする。越えてはいけない境界線が、静かに揺れ始める。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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