残業後、彼女は白い靴下を脱いだ |第2話「雨の残業」

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『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』第2話

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二人だけのフロア

「この数字と、営業部から届いたデータが合わないんです」

水城真帆はモニターに表示された表の一行を指差した。

三浦遼は自分の椅子を彼女の机の横へ運び、並んで画面をのぞき込んだ。

窓の外では激しい雨が降り続いている。

フロアには二人のほかに誰もいない。昼間は絶えず鳴っている電話も、今は沈黙していた。

「この売上、先週の修正版が反映されていないのかもしれません」

「修正版ですか?」

「はい。僕のパソコンに元のメールが残っていると思います」

遼が立ち上がろうとすると、真帆が小さく頭を下げた。

「ごめんなさい。営業の人に経理の残業を手伝わせてしまって」

「どうせ電車も止まっていますから。それに、水城さん一人を残して帰れません」

口にしてから、少し言い過ぎたと思った。

けれど真帆は困った顔をするのではなく、昼間とは少し違う柔らかな表情で笑った。

「三浦さんって、優しいんですね」

「普通ですよ」

「その普通ができない人も、いますから」

最後の言葉だけが、雨音に紛れるように小さかった。

遼が何か尋ねる前に、真帆はモニターへ向き直った。

机の下には、脱いだ黒いパンプスがきちんと揃えられている。

真帆は白い靴下の足を椅子の下へ隠すように引き、何事もなかったように数字の確認を再開した。

白い靴下の理由

原因となったデータが見つかったのは、午後八時を過ぎたころだった。

「これですね。修正前のファイルを読み込んでいます」

「本当だ。よかった……」

真帆は安心したように背もたれへ体を預けた。

張り詰めていた肩から力が抜け、仕事中には見せない疲れた表情が浮かぶ。

「少し休みますか?」

「そうですね。目が数字の形になりそう」

真帆が冗談めかして言った。

遼が笑うと、彼女も声を立てて笑った。

その拍子に、椅子の下へ隠していた足がわずかに前へ出た。

真っ白な靴下に包まれた足先が、疲れをほぐすようにゆっくりと伸びる。

遼はすぐに窓の方を見た。

だが、その不自然な動きを真帆は見逃さなかった。

「やっぱり、変ですか?」

「え?」

「白い靴下です。スーツに合わせる人、あまりいないでしょう?」

真帆は自分の足元を見ながら、少し恥ずかしそうに笑った。

「変だとは思っていません」

「本当に?」

「はい」

遼はそこで言葉を止めるべきだった。

しかし、真帆が返事を待つようにこちらを見ていた。

「水城さんに、似合っていると思います」

真帆の表情が止まった。

雨粒が窓を叩く音だけが、急に大きくなったように感じられた。

「そういうこと、簡単に言わない方がいいですよ」

声は穏やかだったが、遼は自分の軽率さに気づいた。

「すみません」

「謝らなくてもいいです」

真帆は視線を落とし、白い靴下の足先を重ねた。

「嫌だったとは、言っていませんから」

遼は返す言葉を見つけられなかった。

真帆はしばらく黙ったあと、自分から話し始めた。

「子どものころから足が冷えやすくて。薄いストッキングより、綿の靴下の方が落ち着くんです」

「そうだったんですね」

「家では、いい年をして子どもみたいだって笑われますけど」

家で笑う人物が誰なのか、遼には聞かなくても分かった。

真帆の左手には、細い結婚指輪がある。

「僕は、そう思いません」

「三浦さんは、優しすぎます」

彼女はそう言ったが、その声はどこか嬉しそうだった。

雨音の向こう

午後八時半を過ぎても、電車が動き出す気配はなかった。

真帆のスマートフォンが短く震えた。

画面を確認した彼女は、返事を打つことなくスマートフォンを伏せた。

「ご主人ですか?」

聞いてから、踏み込みすぎたと思った。

真帆は少し迷ったあと、静かにうなずいた。

「先に休むそうです」

「迎えに来てもらうのは難しいんですか?」

「頼んでも、たぶん来ません」

真帆は笑おうとした。

けれど、その笑顔はすぐに消えた。

「変ですよね。帰れなくなったのに、少しだけほっとしているんです」

「ほっとする?」

「家に帰っても、会話らしい会話はありませんから」

彼女は窓の外へ目を向けた。

雨ににじんだ街の灯りが、その横顔を淡く照らしている。

「今のは忘れてください。職場の人に話すことではありませんでした」

「忘れられません」

遼は思わず答えていた。

真帆がゆっくりと振り返る。

「水城さんが困っているなら、僕は聞きたいです」

「どうして?」

その問いに、正直な答えを返すことはできなかった。

あなたのことを、もっと知りたいから。

そんな言葉を口にすれば、二人の関係は元に戻れなくなる気がした。

突然、窓の外が白く光った。

一瞬遅れて大きな雷鳴が響き、天井の照明が明滅する。

真帆が驚いて身を寄せ、遼の袖をつかんだ。

細い指の感触が、シャツ越しに伝わった。

二人とも動かなかった。

ほんの数秒だったはずなのに、遼には長い時間のように感じられた。

先に手を離したのは真帆だった。

「ごめんなさい。雷、少し苦手で」

「大丈夫です」

真帆は気まずさを隠すように立ち上がった。

黒いパンプスには足を入れず、白い靴下のまま机の横へ出る。

「温かいものでも飲みませんか?」

「はい」

「給湯室に、紅茶が残っていたと思います」

真帆は遼を待つように一度振り返り、静かなフロアを歩き始めた。

白い靴下の足音は、雨音にかき消されてほとんど聞こえない。

遼は彼女のあとを追った。

二人を外の世界から閉ざすように、雨はさらに強く降り続いていた。


第3話「二人きりの給湯室」を読む

誰もいない給湯室で、真帆が語り始めた夫婦のこと。近づいてはいけないと分かりながら、二人の距離はさらに縮まっていく。

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※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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