『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』第4話
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濡れた白い靴下
真帆は、遼の目の前でゆっくりと片足を上げた。
白い靴下の足裏には、給湯室の床で踏んだ水が染み込んでいる。
「思ったより、濡れていますね」
困ったように笑う真帆の体が、わずかに揺れた。
「危ないですよ。座った方がいいです」
遼は給湯室の隅に置かれていた小さな丸椅子を引き寄せた。
「ありがとうございます」
真帆はスカートの裾を整えながら、椅子へ腰を下ろした。
遼は棚の中を探し、未使用の白いタオルを見つけた。
それを彼女の足元へ広げる。
「ここへ足を置いてください」
「三浦さん、そこまでしてもらわなくても」
「また滑ったら危ないですから」
遼がそう言うと、真帆は小さくうなずいた。
そして、濡れた靴下のかかとへ指を掛けた。
水を含んだ白い生地が、彼女の足からゆっくりと離れていく。
真帆は視線を伏せたまま、つま先から靴下を抜き取った。
白いタオルの上へ、素足がそっと置かれる。
遼は見てはいけない気がして、顔を横へ向けた。
「今度は、見ないんですね」
真帆の声が聞こえた。
「見ていたら、困るでしょう?」
「そうですね。困ります」
彼女はそう答えたが、その声は少し寂しそうだった。
遼が振り返ると、真帆は脱いだ靴下を両手で持っていた。
「でも……急に見られなくなるのも、少し寂しいものですね」
「水城さん」
「自分でも、変なことを言っていると思います」
真帆は恥ずかしそうに笑った。
「主人には見てもらえないのに、三浦さんには見られると困るなんて」
遼は何も答えられなかった。
真帆は素足になった片方と、まだ白い靴下を履いた片方を見比べた。
「片方だけというのも、おかしいですよね」
そう言うと、彼女はもう片方の靴下にも手を掛けた。
こちらは濡れていない。
それでも真帆は、足首から白い生地を静かに滑らせた。
やがて、二枚の白い靴下が彼女の膝の上へ重ねられた。
遼が初めて見た、真帆の素足。
そこには、長い一日を過ごした靴下の跡がうっすらと残っていた。
飾らないその姿が、昼間の彼女よりもずっと近く感じられた。
「恥ずかしいです」
真帆は足先をそろえ、タオルの上で小さく縮めた。
「なのに、どうして脱いだんでしょうね」
「濡れていたからでは?」
「それだけなら、片方だけでよかったはずです」
彼女は膝の上の白い靴下を見つめた。
「きっと、三浦さんになら見られてもいいと思ってしまったんです」
見ていてほしい人
遼の胸が、強く鳴った。
給湯室の時計の音が、急にはっきりと聞こえ始める。
「僕に、ですか」
「はい」
真帆は顔を上げなかった。
「変ですよね。さっきまで、足元を見られるだけで落ち着かなかったのに」
「変ではありません」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
遼は言葉を探した。
目の前にいるのは、職場の先輩であり、結婚している女性だ。
それでも今だけは、その肩書きの向こうにいる一人の女性を見ていた。
「僕も、水城さんに見ていてほしいと思うからです」
真帆がゆっくりと顔を上げた。
「僕がどんなことを考えているのか。どうして水城さんのことが気になるのか」
「聞いてもいいんですか?」
「聞かれたら、もう隠せないと思います」
真帆の指が、膝の上の白い靴下をそっと握った。
「それなら、今は聞かないでおきます」
「やはり、迷惑ですか?」
「違います」
真帆は首を横に振った。
「聞いてしまったら、今までと同じ同僚には戻れない気がするんです」
「僕はもう、同じ気持ちでは戻れません」
遼の言葉に、真帆の瞳が揺れた。
それは告白に限りなく近かった。
けれど、最後の一線だけは越えていない。
真帆は重ねた靴下を丁寧に折り、小さくたたんだ。
「白い靴下なんて、どれも同じだと思っていました」
「同じではありません」
「三浦さんには、違って見えるんですか?」
「水城さんが履いているものだから」
真帆は驚いたように遼を見た。
そして、頬を赤くしながら笑った。
「本当に、困ることばかり言いますね」
「すみません」
「また謝るんですか?」
その声には、もう寂しさがなかった。
真帆はたたんだ白い靴下を、給湯室にあった小さな透明袋へ入れた。
濡れた片方と乾いた片方が、袋の中で重なっている。
それをバッグへしまったとき、スマートフォンの画面が光った。
夫からの短いメッセージだった。
『雨が止まなければ、タクシーで帰れば』
真帆はしばらく画面を見つめ、返信せずに伏せた。
「心配してくれているようにも見えますね」
「そうですね」
「でも、水城さんはそう感じていない」
真帆は小さく息を吐いた。
「以前なら、迎えに来てほしいと思ったかもしれません」
「今は?」
「今は……」
彼女は遼を見つめた。
「三浦さんと、もう少し一緒にいたいと思っています」
一本だけの傘
そのとき、オフィスの方から小さな通知音が聞こえた。
遼がパソコンを確認すると、止まっていた電車が運転を再開していた。
「電車、動き始めたみたいです」
「帰れますね」
真帆の言葉とは裏腹に、その表情は少し残念そうだった。
遼も同じ気持ちだった。
けれど、ここに残り続ける理由はもうない。
二人は給湯室を片づけ、オフィスへ戻った。
真帆の机の下には、脱いだままの黒いパンプスが並んでいる。
彼女は椅子に座ると、素足のまま片方ずつ足を入れた。
「靴下なしで履くと、少し変な感じがします」
「痛くありませんか?」
「駅までなら大丈夫です」
遼は自分の机に置いていたバッグを持った。
二人で照明を消すと、オフィスは暗闇に包まれた。
エレベーターの中でも、二人は何も話さなかった。
並んで立つ距離は、残業が始まったころよりも近い。
一階へ着き、ビルの外を見ると、雨はまだ降り続いていた。
真帆が傘立ての前で足を止めた。
「私の傘、ありません」
「持ってこなかったんですか?」
「朝は降っていなかったので」
傘立てに残っているのは、遼の黒い傘一本だけだった。
「駅まで一緒に入りましょう」
遼が言うと、真帆は傘と彼の顔を交互に見た。
「近くなりますよ」
「給湯室よりは広いです」
真帆は少し驚いたあと、声を立てずに笑った。
「三浦さんも、そんな冗談を言うんですね」
「水城さんといると、少しだけ」
遼が傘を開く。
雨粒が黒い布を細かくたたいた。
真帆は一歩踏み出しかけて、遼の隣で立ち止まった。
「お願いがあるんです」
「何ですか?」
「会社を出たら、水城さんではなくて」
彼女は言葉を止め、恥ずかしそうに目を伏せた。
黒いパンプスの中には、もう白い靴下はない。
「真帆と呼んでもらえませんか?」
遼は、すぐには答えられなかった。
その呼び方が、二人の境界線を越えるものだと分かっていたからだ。
「……真帆さん」
名前を呼ぶと、彼女は穏やかにほほ笑んだ。
「はい、遼さん」
初めて呼ばれた自分の名前が、雨音よりも近くに響いた。
真帆は遼の傘へ入り、スーツの袖が彼の腕に触れた。
二人は離れなかった。
一本だけの傘の下で、駅へ向かってゆっくりと歩き始めた。
次回 第5話「一本の傘の下」
白い靴下をバッグへしまい、素足でパンプスを履いた真帆。名前で呼び合うようになった二人は、一本の傘で夜の駅へ向かう。雨に閉じ込められた帰り道で、真帆が遼へ打ち明ける本当の気持ちとは――。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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