残業後、彼女は白い靴下を脱いだ |第5話「一本の傘の下」

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『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』第5話

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雨音の近さ

「……真帆さん」

遼がもう一度名前を呼ぶと、傘の下で真帆が静かにほほ笑んだ。

「はい、遼さん」

会社では決して使わなかった呼び方。

それだけで、二人の間にあったものが少しずつ変わっていく。

遼は黒い傘を傾け、真帆が濡れないように歩き始めた。

雨粒が傘を細かくたたいている。

一本の傘に入るには、二人の距離は近すぎた。

真帆の肩が遼の腕に触れる。

離れようとすると、今度は彼女が傘からはみ出してしまう。

「もう少し、こちらへ来てください」

遼が言うと、真帆は素直に半歩近づいた。

「これ以上近づいたら、歩きにくくありませんか?」

「真帆さんが濡れるよりはいいです」

名前を口にするたび、胸の奥が熱くなる。

真帆も同じなのか、呼ばれるたびに少しだけ恥ずかしそうな顔をした。

黒いパンプスが、濡れた歩道を慎重に踏んでいく。

靴下を履いていない足には、いつもと違う感触があるようだった。

「やっぱり、少し歩きにくいです」

「大丈夫ですか?」

「はい。でも、素足でこの靴を履くことなんて、ほとんどないので」

真帆は足元を見ながら、歩幅を小さくした。

遼も彼女に合わせてゆっくり歩く。

「私に合わせてくれているんですね」

「急ぐ理由はありませんから」

「電車が動いたのに?」

「駅へ着くまでは、まだ真帆さんと一緒にいられます」

口にしてから、遼は少し言い過ぎたと思った。

けれど真帆は困った顔をしなかった。

むしろ、傘を持つ遼の腕へ自分の肩をそっと寄せた。

「私も、ゆっくり歩きたいです」

雨で光る夜道を、二人は同じ速さで進んだ。

給湯室で交わした言葉が、まだ胸の中に残っている。

バッグの中には、真帆が脱いだ二枚の白い靴下が入っていた。

遼はそれを意識しないようにしていた。

だが、隣を歩く彼女の足音を聞くたび、その姿が頭に浮かんでしまう。

「気になりますか?」

突然、真帆が尋ねた。

「何がですか?」

「私が靴下を履いていないこと」

見透かされたようで、遼はすぐに答えられなかった。

「やっぱり、気になっているんですね」

「すみません」

「謝らないでください」

真帆は前を向いたまま、静かな声で続けた。

「気づいてほしくて脱いだのは、私の方ですから」

真帆の本当の気持ち

駅へ続く交差点に差しかかったとき、雨が急に強くなった。

二人は近くの建物の軒下へ入った。

遼が傘を閉じると、さっきまで二人を包んでいた雨音が少し遠くなる。

それでも、真帆との距離は変わらなかった。

「さっきの言葉は、どういう意味ですか?」

遼は真帆を見つめた。

「気づいてほしくて脱いだ、というのは」

真帆は濡れた道路へ視線を向けた。

「給湯室では、濡れたから脱いだだけだと思っていました」

「はい」

「でも、もう片方まで脱いだとき、自分でも分かっていたんです」

彼女の指が、バッグの持ち手を強く握る。

「遼さんに見ていてほしかったんだって」

真帆はそこで一度、言葉を止めた。

「白い靴下をですか?」

「それだけではありません」

真帆がゆっくりと遼を見上げた。

「私のことを、一人の女性として見てほしかったんです」

遼の胸が強く鳴った。

「家では、妻でいることが当たり前になりました」

真帆の声は、降り続く雨に紛れそうなほど小さかった。

「夫に不満があるのかと聞かれたら、うまく答えられません」

「真帆さん」

「嫌われているわけではないと思います。ひどいことをされているわけでもありません」

それでも、と彼女は続けた。

「いつの間にか、私を見てくれなくなりました」

真帆は寂しそうに笑った。

「髪を変えても、服を変えても、気づいてくれません」

「白い靴下も?」

「はい。夫にとっては、きっと何を履いていても同じなんです」

遼は何も言えなかった。

「でも遼さんは、私の足元を見ていました」

「最初は、嫌でしたよね」

「恥ずかしかったです」

真帆は正直に答えた。

「けれど、少しだけ嬉しくもありました」

「嬉しかった?」

「自分でも忘れていた部分を、見つけてもらえたような気がしたんです」

真帆の頬が、わずかに赤くなる。

「だから、今日は朝から気になっていました」

「何がですか?」

「この白い靴下を履いていたら、遼さんは気づくのかなって」

遼は息をのんだ。

「僕に見られることを考えて、選んだんですか?」

「そこまでは言っていません」

真帆は困ったように笑った。

しかし、すぐに視線を伏せる。

「でも、気づいてほしいとは思っていました」

遼は傘の柄を握ったまま、彼女の言葉を受け止めた。

「僕が気になっているのは、白い靴下だけではありません」

真帆が顔を上げる。

「真帆さんが笑っているか、疲れていないか、無理をしていないか」

「遼さん……」

「気づけば、いつも真帆さんを見ています」

それはもう、気持ちを隠すための言葉ではなかった。

「だから、僕に見てほしいと言われたら、見ないふりはできません」

真帆の瞳が揺れた。

「そんなことを言われたら、戻れなくなります」

「僕は、戻りたいとは思っていません」

二人の間に沈黙が落ちた。

遼が持つ傘から、一滴の雨水が地面へ落ちる。

その音が聞こえるほど、辺りは静かだった。

真帆の手がゆっくりと動いた。

そして、傘の柄を握る遼の手へ、自分の指先をそっと重ねた。

「私も、戻りたくないと思ってしまっています」

触れているのは指先だけだった。

それなのに、給湯室で紅茶を手渡したときよりも近く感じられた。

「今までどおりの同僚には、戻れないかもしれません」

「はい」

「それでも、私を見ていてくれますか?」

「見ています」

遼は迷わず答えた。

「これからも」

真帆は何も言わず、重ねた指へ少しだけ力を込めた。

駅のホームで

雨が弱まり、二人は再び一本の傘で歩き始めた。

駅が近づくにつれて、人通りが増えていく。

それでも真帆は、遼から離れようとしなかった。

改札前へ着くと、遼は傘を閉じた。

二人を包んでいた小さな空間が消えてしまう。

真帆は名残惜しそうに、閉じられた傘を見た。

「着いてしまいましたね」

「そうですね」

電光掲示板には、遅れていた電車の到着時刻が表示されていた。

真帆の電車が来るまで、あと五分しかない。

二人は並んで改札を通り、ホームへ向かった。

階段を上っている途中、真帆の足が一段だけ滑った。

「危ない」

遼は反射的に彼女の腕を支えた。

真帆の体が胸元へ近づく。

「すみません。やっぱり、素足だと滑りますね」

「けがはありませんか?」

「大丈夫です」

そう答えても、真帆はすぐには離れなかった。

遼の腕に支えられたまま、彼を見上げている。

「もう少しだけ、このままでもいいですか?」

遼は黙ってうなずいた。

数秒後、ホームへ入ってくる電車の音が聞こえた。

真帆はゆっくりと遼の腕から離れた。

「私、明日はどうすればいいんでしょう」

「どうする、とは?」

「会社で遼さんを見たら、今までと同じ顔ができるでしょうか」

「僕も自信はありません」

「みんなに気づかれてしまうかもしれませんね」

「気をつけます」

「私も気をつけます」

真帆はそう言ったあと、バッグへ手を入れた。

中から、二枚の白い靴下が入った透明な袋を少しだけ取り出す。

遼へ見せるように持ち上げると、すぐにバッグへ戻した。

「これは、家に帰ったら洗います」

「はい」

「明日は、別のものを履いていきます」

電車がホームへ近づき、風が二人の間を通り抜けた。

「明日も、白ですか?」

遼が尋ねると、真帆は恥ずかしそうに笑った。

「どうしようか、迷っています」

「真帆さんが選んだものなら、何色でも」

「でも、遼さんがいちばん気づいてくれるのは、白ですよね」

電車が止まり、扉が開いた。

真帆は乗り込む直前、遼を振り返った。

「それなら、明日も白にします」

「僕のために?」

真帆はすぐには答えなかった。

扉が閉まり始める直前、彼女の唇が小さく動いた。

「はい。遼さんに見つけてもらうために」

扉が閉じ、電車がゆっくりと動き出す。

窓越しの真帆は、頬を赤くしながら遼を見つめていた。

遼も彼女から目をそらさなかった。

やがて電車が見えなくなり、ホームに静けさが戻った。

そのとき、遼のスマートフォンが震えた。

真帆からの短いメッセージだった。

『今日は、私を見てくれてありがとう』

続けて、もう一通届く。

『明日の白い靴下は、遼さんに選んでもらったことにします』

遼は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

雨の夜に始まった二人だけの秘密。

それは明日の朝、真帆が選ぶ新しい白い靴下へとつながっていた。



第6話「あなたに見せる白い靴下」を読む

遼に見つけてもらうため、新しい白い靴下を選んだ真帆。いつもと変わらない職場で、二人だけが知っている秘密が静かに始まる。机の下で交わされる視線と、真帆が遼だけに見せた小さな合図とは――。

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※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。

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