「どちらが本当なんだ?」
香織さんの夫は、静かな声でもう一度尋ねた。
総菜売り場の冷蔵ケースから、低い機械音が響いている。
すぐ近くを客が通り過ぎていくのに、俺たち三人の周囲だけ時間が止まったようだった。
「両方よ」
先に答えたのは香織さんだった。
「名札もエプロンも店に忘れていたの。袋に一緒に入っていたから、私が名札、悠真君がエプロンって答えただけ」
夫が俺を見る。
「そうなのかい?」
否定すれば、その場で嘘が終わる。
「はい。俺の説明が足りませんでした」
「なるほど」
夫は納得したようにうなずいた。
けれど、その目から疑いは消えていなかった。
「それなら、もう一つだけ教えてくれるかな」
「何でしょう」
「昨夜、君が家を出たのは何時ごろだった?」
また答えを合わせていない質問だった。
香織さんを見ることはできない。
俺は昨夜の記憶をたどる。
夫から予定変更のメッセージが届いたのは、午前三時を少し過ぎたころ。
俺が香織さんの家を出たのは、午前六時前。
本当の時刻を言えるはずがなかった。
「十一時ごろです」
俺はそう答えた。
夫は香織さんへ顔を向ける。
「香織は、日付が変わってから来たと言っていたよ」
胸の奥が大きく沈んだ。
「私の勘違いよ」
香織さんがすぐに言う。
「眠くて、時計をよく見ていなかったから」
「そうか」
夫の声は変わらない。
「では、朝まで流しにあったマグカップが、まだ温かかったのはなぜだろう」
香織さんの唇がわずかに開いた。
「あなたが帰る前に、私が洗ったからよ」
「昨日の朝から置いたままだったと言わなかったか?」
「それは……」
香織さんの言葉が止まる。
夫は大きなため息もつかなかった。
ただ、俺たちの顔を交互に見た。
「忘れ物が名札だったのか、エプロンだったのか。それはもう、どちらでもいいんだ」
穏やかな声が、かえって胸へ重く響く。
「知りたいのは、なぜ二人が私に違う嘘をつくのかということだよ」
「嘘ではありません」
俺が答えると、夫の視線が鋭くなった。
「では、君は朝まで私の家にいなかったと断言できるのか?」
言葉が出なかった。
沈黙が、答えになってしまう。
「悠真君は悪くないの」
香織さんが俺の前へ出た。
「私が家へ上がってほしいとお願いしたの。私が引き止めたのよ」
「香織さん」
「私のせいだから」
夫は香織さんを見つめた。
「朝までいたと認めるんだね」
「話をしていただけよ」
「その白い靴下は、今朝履いたばかりだと言っていたね」
俺も香織さんも、動けなかった。
夫の視線が、香織さんの足元へ落ちる。
黒いローファーの履き口から、白いリブソックスがのぞいていた。
「どうして、今それを」
香織さんの声が震える。
「さっき通路で、悠真君が『その靴下、替えていないんですか』と聞くのが聞こえたんだ」
夫は淡々と答えた。
「今朝履いた靴下なら、なぜ彼は替えていないことを知っている?」
「昨日の仕事中にも、同じ靴下を見ていたからです」
俺は苦し紛れに答えた。
「白い靴下なんて、どれも似ているでしょう。俺が同じものだと勘違いしただけです」
「それなら、なぜ香織は『替えられなかった』と答えたんだ?」
夫は通路での会話を、そこまで聞いていた。
もう、ごまかせる言葉が見つからない。
香織さんの右足が左足の後ろへ隠れる。
白い靴下を見られまいとしているようだった。
「その靴下に、何か特別な意味があるのか?」
「ありません」
香織さんが答える。
「では、なぜ隠す?」
「怖いからよ。あなたが、何もかも疑って見るから」
「疑う理由を作ったのは、私ではないよ」
夫の言葉に、香織さんは何も返せなかった。
夫がどこまで分かっているのか、俺には判断できなかった。
本当に見抜いているのか。
それとも、俺たちの反応を確かめるために言っているだけなのか。
「ご主人、香織さんを責めないでください」
俺は夫をまっすぐ見た。
「俺が帰らなかったんです」
「それは、妻と君の間に、私が責めるべきことがあると認めているのかな」
また言葉を失った。
何を答えても、自分で逃げ道を塞いでしまう。
夫は俺から視線を外し、香織さんへ右手を差し出した。
「スマートフォンを貸してくれるか」
「どうして」
「今は、君が彼と相談しないようにするためだよ」
「仕事中よ」
「仕事中なら、使わなくても困らないだろう」
香織さんはエプロンのポケットへ手を入れた。
取り出したスマートフォンを見つめ、すぐには渡そうとしない。
俺とのやり取りが残っている。
すべて削除してあるのか、俺には分からなかった。
「香織」
夫が名前を呼ぶ。
香織さんは観念したように画面のロックを解除し、その手の上へスマートフォンを置いた。
「今日は何時に終わる?」
「十時」
「分かった。外で待っているよ」
「帰っていて。私は一人で帰れるから」
「帰り道で、また誰かと話を合わせられては困る」
夫はそう言うと、総菜売り場から離れていった。
怒鳴り声も、脅す言葉もなかった。
けれど香織さんは、肩を小さく震わせたまま動けなかった。
「大丈夫ですか」
俺が近づこうとすると、彼女は首を横に振った。
「来ないで」
拒絶ではなかった。
これ以上、夫に見られるものを増やさないためだった。
「今は、私を見ないで」
香織さんはそう言い残し、売り場の奥へ戻った。
残りの勤務時間、俺たちは一度も言葉を交わさなかった。
香織さんは、何事もなかったように商品を並べ続けた。
けれど、トングを持つ指は何度も震え、値札を貼る位置も少しずつずれていた。
一度、手から落ちたパックを拾おうとして、俺たちの手が同時に伸びた。
指先が触れる寸前、香織さんは自分の手を引いた。
俺も動きを止める。
たったそれだけのことさえ、今は夫に見られている気がした。
夫は本当に、店の外で待っていた。
ガラス越しに見える駐車場の端へ、見覚えのある黒い車が止まっている。
休憩へ入るときも、商品を補充するときも、その車は動かなかった。
香織さんも、ときどき窓の外を見た。
そのたび、黒いローファーの両足が止まる。
履き口からのぞく白い靴下は、昨夜からずっと同じままだった。
夫に嘘をつくため履き続けた靴下が、今度は彼女を夫のもとへ連れ戻そうとしている。
午後十時。
閉店作業を終えた香織さんが、従業員出口へ向かった。
焦げ茶色のエプロンだけを外し、白いシャツと黒いスカートのまま。
足元には、白いリブソックスと黒いローファー。
俺は少し離れた通路から、その後ろ姿を見ていた。
夫が入口の外で待っている。
香織さんが扉の前で一度だけ立ち止まった。
振り返るかと思った。
けれど彼女は俺を見ず、そのまま外へ出た。
夫が車の助手席の扉を開ける。
香織さんは黙って乗り込んだ。
白い靴下の両足が車内へ消え、黒い扉が閉まる。
夫が連れ帰ったのは、自分の妻だけではない。
俺が昨夜触れた白い靴下も、その靴下に残した秘密も、すべてだった。
黒い車が駐車場を出ていく。
俺には、追いかけることも、メッセージを送ることもできなかった。
香織さんのスマートフォンは、夫が持っている。
その夜。
日付が変わっても眠れずにいると、机の上のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前は、香織さんだった。
反射的に手を伸ばす。
届いたメッセージを見て、指が止まった。
『先ほどは、店で失礼したね』
香織さんの言葉ではない。
続けて、二通目が届く。
『香織の夫です』
やはり、スマートフォンは夫の手にあった。
『妻との過去のやり取りは、まだ読んでいません』
その一文に安堵しかけた直後、最後のメッセージが表示された。
『悠真君。明日の夜、私と二人で話しませんか』
断るという選択肢があるようには思えなかった。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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