夜が明ける少し前、香織さんはベッドの端に腰掛けていた。
乱れた髪を後ろでまとめながら、床にそろえて置かれた黒いローファーを見つめている。
その足には、まだ三つ折りの白いリブソックスが残っていた。
履き口は少し崩れ、柔らかな生地には昨夜のぬくもりが残っている。
「もう、帰らないと」
香織さんが小さく言った。
夫の待つ家へ帰る。
分かっていたことなのに、その言葉が胸に重く沈んだ。
俺は床に膝をつき、香織さんの右足をそっと持ち上げた。
「何をするの?」
「靴、履かせます」
「自分で履けるわよ」
「分かっています」
それでも香織さんは足を引かなかった。
俺は崩れていた靴下の履き口を整えた。
白い生地を指先で伸ばし、三つの折り目が同じ幅になるようにゆっくり重ねる。
左足も同じように整えた。
両足にそろった白い三つ折り靴下。
その上から黒いローファーを履かせると、香織さんは人妻パートの顔へ戻っていった。
けれど、頬に残った赤みだけは隠せていなかった。
「悠真君」
「はい」
「この靴下を見るたびに、今夜のことを思い出してしまいそう」
俺は返事ができなかった。
香織さんは立ち上がると、左手の結婚指輪を親指でなぞった。
「最低ね、私」
「そんなこと言わないでください」
「夫のところへ帰るのよ。あなたに触れられた靴下を、そのまま履いて」
責めるような言い方ではなかった。
むしろ、自分自身に言い聞かせているようだった。
「それでも、帰りたくないと思ってる」
香織さんは俺の頬に手を添えた。
唇が触れそうなところまで顔を寄せたのに、最後の少しだけを残して離れていった。
「これ以上したら、本当に帰れなくなるから」
ドアが閉まったあとも、彼女の白い靴下の感触だけが両手に残っていた。
次の出勤日。
香織さんはいつもどおり惣菜売り場に立っていた。
淡い色のブラウス。
えんじ色のエプロン。
黒いスカート。
そして、黒いローファーの履き口からのぞく白い靴下。
あの夜と同じ三つ折りではない。
仕事の日に履いている、ごく普通の白いリブソックスだった。
けれど、俺にはもう普通の靴下には見えなかった。
閉店まで、香織さんと話す機会はなかった。
何度か目が合っても、彼女は客に向けるものと同じ笑顔を浮かべるだけだった。
閉店後、俺がバックヤードで段ボールを片づけていると、背後で扉が閉まった。
振り返ると、香織さんが立っていた。
「少しだけ、話せる?」
俺はうなずいた。
香織さんは周囲を確かめてから、エプロンのポケットに両手を入れた。
「家に帰ったあと、夫が起きていたの」
胸の奥が冷たくなる。
「何か、聞かれたんですか」
「パート仲間と食事をしていたって言ったわ」
「信じてもらえました?」
「たぶん」
香織さんはそう答えたが、表情は晴れなかった。
「玄関で靴を脱いだとき、夫が私の足を見たの」
俺は黙って続きを待った。
「夜中まで履いていたから、靴下の折り目が崩れていたでしょう?」
あの部屋で、俺が整えたはずの白い三つ折り靴下。
帰り道を歩くうちに、また少しだけ乱れていたのだろう。
「珍しい靴下だなって言われたわ。いつも仕事で履いているものと違うから」
「それで……」
「冷えているんじゃないかって、夫が足首に触れたの」
香織さんの声が震えた。
俺の胸に、嫉妬とも罪悪感ともつかない感情が広がっていく。
「あの人は、ただ心配してくれただけ。でも、白い生地の上から触れられた瞬間……」
香織さんは言葉を止めた。
「誰を思い出したんですか」
聞いてはいけないと思いながら、俺は尋ねていた。
香織さんが顔を上げる。
「言わせるの?」
「聞きたいです」
しばらく見つめ合ったあと、香織さんは観念したように息を吐いた。
「悠真君よ」
そのひと言だけで、胸が熱くなった。
「夫の手なのに、あなたが触れているように感じてしまった」
「嫌でしたか?」
「夫に触れられたことが?」
俺はうなずいた。
「違うの。あなたを思い出してしまった自分が怖かった」
香織さんはエプロンのポケットから、小さな白い布袋を取り出した。
きれいに折り畳まれた布袋だった。
「これ、悠真君に渡そうと思って」
受け取って中を確かめる。
入っていたのは、あの夜に香織さんが履いていた三つ折りの白いリブソックスだった。
両方とも、きちんと重ねて畳まれている。
「洗ってないの」
香織さんが恥ずかしそうに目を伏せた。
「帰ってから、夫に見つからないように隠したの。こんなものを渡されたら、困るでしょう?」
「困りません」
即座に答えると、香織さんが驚いたように俺を見た。
「本当に?」
「俺にくれるんですか」
「嫌じゃなければ」
俺は白い靴下を両手で包んだ。
柔らかなリブ生地に、香織さんが過ごした一晩の名残が残っている。
「汚いと思わないの?」
「思いません」
「人妻が一晩履いた靴下よ」
「香織さんのものです」
その答えを聞くと、香織さんの頬が赤く染まった。
「少しだけ、恥ずかしいお願いをしてもいい?」
「何ですか」
「私が見ている前で……大切にして」
俺は靴下を頬へ寄せた。
洗剤の清潔な香りに、香織さん自身のかすかな温度が混じっている。
目を閉じると、ホテルの薄暗い照明と、俺を見つめていた香織さんの表情がよみがえった。
「悠真君」
目を開けると、香織さんがすぐ目の前に立っていた。
「そんな顔をされたら、また帰れなくなる」
「今夜も、帰るんですか」
「帰らなきゃいけないの」
そう言いながら、香織さんの指が俺の頬をなぞった。
「でも、帰りたいとは言ってないわ」
そのとき、バックヤードの外から男の声が聞こえた。
「すみません。香織はまだ残っていますか?」
香織さんの顔から血の気が引いた。
俺は反射的に白い布袋をエプロンのポケットへ押し込んだ。
聞き覚えのない声。
けれど、それが誰なのかは、香織さんの表情だけで分かった。
「夫よ」
閉じた扉の向こうに、香織さんの夫が立っていた。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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