白い靴下に包まれた両足を抱き締めたまま、俺は心の中で秒数を数えた。
一秒。
香織さんの足から、一日働いたあとの温かさが伝わってくる。
二秒。
柔らかなリブ生地の下で、彼女のつま先がわずかに動いた。
三秒。
店の外では、香織さんの夫が車の中で待っている。
それなのに彼女は、俺の膝を両足で挟んだまま離そうとしなかった。
「悠真君」
香織さんが小さな声で俺の名を呼ぶ。
「はい」
「今だけは、夫のことを考えないで」
「無理です」
俺が答えると、香織さんの表情が曇った。
「ご主人が待っていると思うから、余計に離したくないんです」
香織さんは何も言わなかった。
ただ、白い靴下に包まれた両足へ、ゆっくり力を込めた。
四秒。
五秒。
俺は右足の細い足首を支え、白いリブ生地の上から親指を滑らせた。
香織さんの喉から、かすかな吐息が漏れる。
六秒。
「今夜、この靴下を履いたままご主人の隣に座るんですよね」
「ええ」
「俺に触られたことを隠して?」
香織さんは恥ずかしそうにうなずいた。
七秒。
スマートフォンが、もう一度震えた。
今度はメッセージではなく着信だった。
画面には、夫の名前が表示されている。
それでも香織さんは電話を取らなかった。
八秒。
「出なくていいんですか」
「あと少しだけ」
香織さんの声が震えている。
九秒。
俺は両手で白い靴下の足を包み、そこへ額を寄せた。
香織さんの指先が、俺の髪へ触れる。
十秒。
終わった。
けれど、どちらからもすぐには離れられなかった。
着信音が途切れ、休憩室に静けさが戻る。
「もう行かないと」
香織さんが自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。
俺が腕を緩めると、彼女の両足が膝からゆっくり下りていく。
床へ揃えられた白いリブソックスには、俺が触れたために細かな皺ができていた。
香織さんはそれを見つめ、頬を赤くした。
「こんなに乱れてしまったわ」
「俺が直します」
俺は床に膝をついたまま、白い靴下の皺を左右の足首から丁寧に伸ばした。
その上から右のローファーを履かせる。
続いて左足を支え、もう片方のローファーへ入れる。
かかとを収めようと指を添えたとき、香織さんの身体が小さく震えた。
「靴を履かせてもらうだけなのに、おかしいわね」
「何がですか」
「あなたにされると、普通のことじゃなくなってしまうの」
両足のローファーを履き終えると、白い靴下は履き口から少しだけのぞいていた。
数分前まで俺の手の中にあった両足が、何事もなかったように黒い靴の中へ隠されている。
香織さんは立ち上がり、スカートとエプロンを整えた。
いつもの、真面目な人妻パートの姿へ戻っていく。
「変じゃない?」
「大丈夫です。ご主人には分かりません」
「悠真君には分かるのね」
「もちろんです」
香織さんは俺を見つめた。
「この靴下に、あなたが触れたことも?」
「忘れません」
香織さんの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
スマートフォンへ、夫から新しいメッセージが届いた。
『何かあった?』
香織さんは短く返信を打った。
『ごめんなさい。今行きます』
「帰ります」
「はい」
そう答えたのに、俺は扉の前に立つ香織さんから目をそらせなかった。
彼女も取っ手へ手を掛けたまま動かない。
「悠真君」
「何ですか」
「この靴下、家へ着くまで脱がないわ」
「ローファーの中だから、脱げないでしょう」
「そういう意味じゃないの」
香織さんは一度うつむき、白い靴下ののぞく足元を見た。
「夫の隣にいても、今夜はずっと履いている。あなたの手の温度が消えないように」
その言葉を残し、香織さんは休憩室を出ていった。
俺は少し間を空けてから、従業員通路の小窓へ向かった。
店の前に一台の車が止まっている。
運転席から降りた夫が、香織さんの鞄を受け取った。
何かを尋ねられたのだろう。
香織さんは笑顔を作り、夫へ頭を下げている。
やがて夫が助手席の扉を開けた。
香織さんが車へ乗り込む。
黒いローファーの履き口からのぞいた白い靴下が、一瞬だけ街灯に照らされた。
あの白い生地の下には、まだ俺の指の感触が残っている。
そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。
夫が運転席へ戻り、車が走り出す。
助手席の香織さんが、こちらを見たような気がした。
けれど、暗い車内から俺の姿が見えるはずはなかった。
その夜、十一時を過ぎても眠れなかった。
スマートフォンを手にしたままベッドへ横になっていると、香織さんから写真が届いた。
車の助手席で撮ったらしい。
床には脱いだ黒いローファー。
座席の下で揃えられた両足には、俺が触れた白いリブソックスが履かれている。
写真の端には、ハンドルを握る夫の腕が写っていた。
続けてメッセージが届く。
『足が疲れたと言って、車の中で靴を脱いだの』
俺は写真を拡大した。
白い靴下には、休憩室で触れたときの皺がわずかに残っている。
『隣にご主人がいるのに、こんな写真を撮ったんですか』
しばらく返信はなかった。
送ったことを後悔しているのかもしれない。
やがて、短い文章が届いた。
『悠真君に見てほしかったから』
『ご主人には気づかれませんでしたか』
『運転していたから大丈夫』
そのあとに、もう一通。
『夫に、今日はずいぶん機嫌がいいねって言われたわ』
俺は何と返せばよいのか分からなかった。
『何て答えたんですか』
『仕事がうまくいったからって』
嘘だった。
香織さんは夫の隣で、俺との十秒を隠している。
『本当は?』
俺が送ると、すぐに既読がついた。
『あなたに触れてもらったから』
胸の鼓動が速くなる。
画面の中では、白い靴下の両足が夫のすぐ隣にある。
『まだ、俺の手を覚えていますか』
今度は少し長い間が空いた。
『忘れられない』
その一文を最後に、香織さんからのメッセージは途切れた。
翌朝。
目を覚ますと、深夜一時過ぎに送られた未読のメッセージが残っていた。
『来週の金曜日、夫は泊まりの出張なの』
それだけだった。
けれど、その言葉が何を意味しているのか、俺には分かっていた。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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