『残業後、彼女は白い靴下を脱いだ』第6話
← 第5話「一本の傘の下」へ戻る
作品紹介・全話一覧はこちら
あなたのために選ぶ朝
翌朝、真帆は寝室の引き出しを開けたまま、しばらく動けずにいた。
そこには、色も長さも違う靴下がきれいに並んでいる。
けれど、真帆が見つめているのは白いものだけだった。
昨夜、駅のホームで遼に告げた言葉を思い出す。
「それなら、明日も白にします」
ほんの一日前まで、靴下は服装に合わせて選ぶだけのものだった。
今朝は違う。
今日は遼が気づいてくれるだろうか。
どんな顔で見てくれるだろう。
そう考えながら選んでいる自分が、恥ずかしくて仕方なかった。
真帆は一足の白い靴下を取り出した。
くるぶしより少し上まである、柔らかな生地の短い靴下。
履き口には細いリブが入り、真っ白な生地の中に控えめな模様が編み込まれている。
派手ではない。
けれど、いつものものより少しだけ丁寧に選んだことが伝わりそうだった。
ベッドの端へ腰掛け、片方ずつ足を通す。
白い生地を指先で整えながら、真帆は小さく息を吐いた。
鏡の前に立つと、膝丈のスカートの下に白い靴下がのぞいている。
黒いパンプスを履けば、見えるのは足首を包むわずかな部分だけだ。
それでも遼なら、きっと見つける。
そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
真帆はスマートフォンを手に取った。
まだ出勤前の早い時間だったが、遼へ短いメッセージを送る。
『昨日の約束、覚えていますか?』
すぐに既読がついた。
『もちろん覚えています』
続けて、もう一通届く。
『今日も白ですか?』
真帆は足元を見た。
それから少し迷い、文字を打つ。
『会社で見つけてください』
送信した途端、恥ずかしさに耐えられなくなり、スマートフォンをバッグへ入れた。
誰にも知られてはいけない。
夫にも、会社の人たちにも。
これは真帆と遼だけが知っている、小さな秘密だった。
出勤すると、遼はすでに自分の席へ座っていた。
真帆がオフィスへ入った瞬間、彼が顔を上げる。
「おはようございます、水城さん」
会社では名字で呼び合う。
昨夜、一本の傘の下で名前を呼び合ったことなどなかったように。
「おはようございます、三浦さん」
真帆もいつもどおりの声で答えた。
遼の前を通り、自分の席へ向かう。
けれど、その途中で彼の視線が足元へ向いたことに気づいた。
ほんの一瞬だった。
それでも、間違いなく見つけてくれた。
真帆が椅子へ座ると、机の上のスマートフォンが震えた。
『見つけました』
たった六文字のメッセージ。
真帆は思わず笑いそうになり、慌てて口元を手で隠した。
『早すぎます』
『真帆さんが来てから、ずっと気になっていました』
会社で名前を呼ばれているわけではない。
画面に表示された文字だけなのに、昨夜と同じ声が耳元で聞こえた気がした。
真帆は周囲を確かめてから返信する。
『今日の白い靴下は、遼さんに見つけてもらうために選びました』
送信したあと、彼の方を見ることができなかった。
やがて、少し離れた席からスマートフォンの振動音が聞こえた。
遼がメッセージを読んでいる。
そう思うだけで、白い靴下に包まれた足先まで意識してしまう。
しばらくして返事が届いた。
『ありがとうございます。とても似合っています』
真帆は机の下で、両足をそっとそろえた。
誰からも見えない場所で、白い靴下が静かに重なった。
机の下の小さな合図
午前十時から、部署の定例会議が始まった。
真帆と遼は、長い会議用テーブルを挟んで向かい側に座った。
上司が資料を読み上げ、同僚たちがパソコンへ数字を入力している。
二人も仕事へ集中しようとしていた。
それでも、ふとした瞬間に視線が重なる。
真帆は平静を装いながら、足の位置を少しだけ変えた。
黒いパンプスのつま先を遼の方へ向ける。
テーブルの下で、白い靴下の履き口がいつもよりはっきり見えた。
遼の視線が一瞬だけ下がる。
そして再び真帆の顔へ戻ってきた。
気づいた。
真帆には、それだけで分かった。
彼女は資料へ目を落としたまま、パンプスのかかとをほんの少し浮かせた。
白い靴下に包まれたかかとが、靴の内側からわずかにのぞく。
昨夜の約束を確かめるための、二人だけの合図だった。
遼は何も言わない。
けれど、ペンを握る指が一度だけ止まった。
真帆の胸が高鳴った。
「水城さん、この数字で間違いありませんか?」
突然、上司に呼ばれ、真帆は慌てて顔を上げた。
「はい。確認済みです」
何事もなかったように答える。
周囲には気づかれていない。
それでも、秘密を抱えたまま仕事をする緊張で、頬が熱くなっていた。
会議が終わり、真帆が資料をまとめていると、遼がそばを通った。
彼は立ち止まらなかった。
ただ、すれ違いざまに小さな声で言った。
「合図、分かりました」
真帆は返事をする代わりに、資料を抱えたまま彼の背中を見送った。
昼休みになると、遼のスマートフォンへメッセージを送った。
『五分後に、西側の階段へ来てもらえますか?』
『分かりました』
真帆は同僚たちと少しだけ話したあと、一人でオフィスを出た。
西側の非常階段は、昼休みでもほとんど人が来ない。
踊り場の小さな窓から、夏の明るい光が差し込んでいた。
真帆が階段へ腰掛けて待っていると、静かな足音が近づいてくる。
「真帆さん」
扉が閉まったあと、遼は昨夜と同じように名前で呼んだ。
「来てくれたんですね」
「真帆さんに呼ばれたら、来ない理由はありません」
遼は真帆から一段離れた場所へ座った。
近すぎず、遠すぎない距離。
その気遣いが、真帆には嬉しかった。
「朝のメッセージ、本当なんです」
「白い靴下を、僕に見つけてもらうために選んだことですか?」
「はい」
真帆は足元へ視線を落とした。
「今朝、引き出しの前でずいぶん迷いました」
「どれにするか?」
「遼さんが、どんな白い靴下を好きなのか分からなかったので」
その言葉に、遼は驚いたように真帆を見た。
「僕の好みまで考えてくれたんですか?」
「笑わないでください」
「笑いません」
遼の声は真剣だった。
「嬉しいです」
真帆は少し迷ったあと、右足のパンプスへ指をかけた。
そして、かかとをゆっくりと靴から抜く。
白い靴下に包まれた足が、昼の光の中に現れた。
真帆はパンプスを一段下へ置き、靴下を履いた足をそっと床へ下ろした。
「朝は一瞬しか見えなかったでしょう?」
遼はすぐには答えなかった。
白い靴下と真帆の顔を交互に見つめている。
「近くで見てもいいんですか?」
「そのために呼びました」
真帆は恥ずかしそうに笑った。
柔らかな白い生地が足の形に沿い、細いリブの模様が光を受けている。
昨日の雨に濡れたものとは違う、新しい白い靴下。
真帆が遼のために選んだ一足だった。
「どうですか?」
「きれいです」
「靴下が?」
真帆が少しだけ意地悪そうに尋ねた。
遼は彼女の目を見つめた。
「真帆さんが、です」
返ってきた言葉に、真帆は何も言えなくなった。
頬を赤くしながら、白い靴下のつま先を小さく動かす。
「そんなふうに言われると思っていませんでした」
「本当にそう思っています」
「私、結婚しているんですよ」
「分かっています」
「それでも?」
「それでも、真帆さんをきれいだと思う気持ちは変えられません」
非常階段に、しばらく沈黙が流れた。
窓の外から車の走る音がかすかに聞こえる。
真帆は自分の足へ手を伸ばし、靴下の履き口を指先でそっと整えた。
「遼さん」
「はい」
「少しだけ、手を出してもらえますか?」
遼は戸惑いながら、右手を差し出した。
真帆は白い靴下を履いた足を持ち上げ、その手のすぐ手前で止めた。
触れてはいない。
二人の間には、わずかな隙間が残っている。
「昨日から、気になっていました」
「何がですか?」
「遼さんは、私の白い靴下を見ているのに、触れようとはしないんですね」
遼は差し出した手を動かさなかった。
「真帆さんが許してくれるまでは、触れません」
「もし、私が許したら?」
「そのときも、本当にいいのか確かめます」
真帆の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「遼さんらしいですね」
白い靴下のつま先が、彼の手のひらへ近づく。
あと少し動けば触れてしまう距離だった。
しかし真帆は、そのまま足を止めた。
「今日は、見せるだけです」
「はい」
「残念ですか?」
「いいえ」
遼は穏やかに答えた。
「真帆さんが僕に見せようと思ってくれた。それだけで十分です」
真帆は安心したように息を吐き、足を床へ戻した。
そして再びパンプスを履く。
白い靴下の大部分は黒い靴の中へ隠れ、いつもの真帆の足元に戻った。
それでも二人は、その下にある秘密を知っていた。
あなたにだけ見せたいもの
午後のオフィスで、真帆と遼はいつもどおり仕事を続けた。
誰かがそばにいるときは名字で呼び合い、必要な話しかしない。
二人きりになっても、昼休みのことには触れなかった。
けれど、真帆が席を立つたび、遼の視線が足元へ向く。
そして彼に見られていることを感じるたび、真帆の歩き方は少しだけゆっくりになった。
夕方になり、同僚たちが次々と退社していく。
真帆は机の上を片づけながら、遼へメッセージを送った。
『今日は一緒に帰れません』
すぐに返事が届く。
『分かりました。気をつけて帰ってください』
引き止めようとしない彼の言葉に、真帆は少し寂しさを感じた。
同時に、自分の都合を大切にしてくれることが嬉しかった。
『昨日、一緒に歩けて嬉しかったです』
『僕もです』
真帆はスマートフォンをバッグへ入れ、席を立った。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
遼もほかの同僚と同じ声で答える。
真帆はオフィスの出口で一度だけ振り返った。
遼と視線が重なる。
彼女は誰にも分からないほど小さく、片方の足を後ろへ引いた。
黒いパンプスの上から、白い靴下がのぞく。
朝の約束を終える、最後の合図だった。
帰宅後、真帆は寝室でパンプスを脱いだ。
一日履いていた白い靴下を見つめる。
今朝と同じ一足なのに、もう昨日までの靴下とは違って見えた。
遼が見つけてくれた。
近くで見つめて、きれいだと言ってくれた。
触れられてはいない。
それでも、彼の手のひらとのわずかな隙間を思い出すだけで、胸が高鳴った。
真帆はベッドの端へ座り、スマートフォンを手に取った。
カメラを起動し、白い靴下を履いた両足へ向ける。
隣には、脱いだ黒いパンプスをきれいにそろえた。
一度撮影しては消し、角度を変えてもう一度撮る。
誰かに足元の写真を送ることなど、今まで一度もなかった。
まして、その相手は夫ではない男性だった。
送ってはいけない。
そう思うのに、遼にもう一度見てもらいたい気持ちを止められなかった。
真帆は写真を選び、メッセージへ添付する。
『今日は、見つけてくれてありがとうございました』
まだ送信ボタンは押さない。
画面を閉じようとしたとき、遼からメッセージが届いた。
『今日の白い靴下、本当に似合っていました』
真帆はその言葉を何度も読み返した。
そして、迷っていた指で送信ボタンを押した。
写真が遼のもとへ送られていく。
『これは……』
すぐに返事が届いた。
真帆は恥ずかしさで顔を覆いながら、続きを打った。
『今日、遼さんに見てもらうために選んだ白です』
『僕に送っても大丈夫なんですか?』
彼は写真を喜ぶより先に、真帆の気持ちを確かめてくれたた。
『大丈夫です』
真帆は一度文字を止めてから、もう一文を加えた。
『遼さんにだけ、見てほしいんです』
しばらく返事が来なかった。
真帆は不安になり、送った写真を見返した。
やりすぎてしまっただろうか。
彼を困らせてしまったのだろうか。
やがて、スマートフォンが震えた。
『大切に見ます』
続けて、もう一通届く。
『誰にも見せません。二人だけの秘密にします』
真帆の胸に、温かなものが広がった。
『きれいですか?』
昼休みと同じ質問を送る。
遼の返事も、あのときと同じだった。
『白い靴下もきれいです。でも、僕が見ているのは真帆さんです』
真帆は白い靴下を履いた足をそろえ、ベッドの上へ静かに引き寄せた。
今夜、遼は自分が送った一枚を見ている。
そう思うだけで、離れているはずの二人が昨日の傘の下より近く感じられた。
『明日も白を履いた方がいいですか?』
『真帆さんが履きたいものを選んでください』
『それでは答えになっていません』
少し間を置いて、遼から新しいメッセージが届く。
『明日も白い靴下を履いてきてくれたら、嬉しいです』
真帆は画面を見つめながら、静かにほほ笑んだ。
『分かりました』
そして最後に、今までなら決して送らなかった言葉を添える。
『明日は、今日よりもう少し近くで見てください』
送信したあと、真帆はスマートフォンを胸元へ抱いた。
明日の朝、また遼のために白い靴下を選ぶ。
その秘密はもう、会社の中だけに収まるものではなくなっていた。
真帆から初めて送られてきた、白い靴下の写真。二人だけの夜のやり取りは次第に親密になり、翌日、真帆は「昨日より近くで見てほしい」という約束を実行する。誰もいない資料室で、白い靴下を履いた足が遼の手へ近づいて――。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


コメント