「もう少しだけ……そのままでいて」
香織さんの声を聞きながら、俺は白い靴下に包まれた右足を両手で支えていた。
手のひらに収まったかかとは、思っていたより小さい。
柔らかな白い生地の奥から、香織さんの温度がゆっくり伝わってくる。
夢にまで見たはずの瞬間なのに、胸が苦しくなるほど緊張していた。
「そんなに震えなくてもいいのに」
香織さんが小さく笑った。
「香織さんの足も、少し震えています」
俺が答えると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「それは……こんなふうに男の人に触られるなんて、久しぶりだから」
左手の薬指で、細い結婚指輪が光っていた。
その指輪を見た途端、手を離したほうがいいのではないかと思った。
けれど、香織さんの足は俺の手の中に残ったままだった。
「嫌だったら、すぐに言ってください」
「嫌じゃないわ」
今度は迷いのない返事だった。
「むしろ、悠真君がどんなふうに触れるのか……少し気になってた」
その言葉に背中が熱くなった。
俺は白いリブ靴下のかかとを、親指でそっと撫でた。
細い縦模様が指先へ触れる。
一日中、香織さんの足を包んでいた白い生地。
洗剤の清潔な香りに、彼女自身の温かな気配がほんの少し混じっていた。
「これが、そんなに好きなの?」
「はい」
「普通の靴下よ」
「香織さんが履くと、普通じゃなくなります」
香織さんは困ったように笑った。
けれど、頬は赤いままだった。
俺はかかとから足首へ、ゆっくり指を滑らせた。
白い靴下越しに、細い骨の形が分かる。
足首へ触れるたび、香織さんのつま先が小さく動いた。
「くすぐったいですか」
「少しだけ」
そう言いながらも、彼女は足を引かなかった。
「もう片方も……触ってみたい?」
椅子の下に置かれていた左足が、静かに持ち上がった。
俺の答えを待つように、白い靴下のつま先が目の前で止まる。
「触れたいです」
俺は右足を支えたまま、左足のかかとにも手を添えた。
両足とも、同じ白いリブ靴下。
けれど、触れてみると形も温度も微妙に違っていた。
左右の足を俺へ預けていることが恥ずかしいのか、香織さんは膝をそろえたまま俯いていた。
その仕草が、たまらなく愛おしく見えた。
「悠真君」
「はい」
「今、どんな気持ち?」
「ずっと見ていた人の白い靴下に、本当に触れているんだって……まだ信じられません」
「それだけ?」
また、あの尋ね方だった。
俺の気持ちをもっと聞きたいとき、香織さんは必ず「それだけ?」と言う。
「もっと近くにいたいと思っています」
香織さんが顔を上げた。
視線が重なる。
彼女は何も言わず、右足を俺の胸元へ伸ばした。
白い靴下のつま先が、作業着の上から胸へ触れる。
心臓の音を確かめるように、ゆっくり押し当てられた。
「すごく速い」
「香織さんのせいです」
「私、何もしてないわよ」
「こうして足を預けてくれています」
「悠真君が触りたいと言ったからでしょう?」
からかうような声だった。
けれど、その表情には余裕がなかった。
香織さん自身も、普段とは違う呼吸をしている。
俺は胸元に触れている白い靴下のつま先を、そっと手で包んだ。
「ここにも、触れていいですか」
「もう触ってるじゃない」
「手じゃなくて……」
言葉が続かなかった。
俺の視線が何を求めているのか、香織さんには伝わっていた。
白い靴下のつま先と、俺の唇との距離。
香織さんは一度、薬指の結婚指輪を見つめた。
「この指輪をしている私が、こんなことをしているのよ」
「やめますか」
俺はすぐに尋ねた。
香織さんは首を横に振った。
「悠真君は、やめてほしい?」
「いいえ」
「だったら……少しだけ」
香織さんは椅子の背へ身体を預け、右足を俺のほうへ差し出した。
俺は両手でかかとを支え、白い靴下に包まれた足の甲へ顔を近づけた。
一度だけ香織さんを見上げる。
彼女は逃げずに俺を見つめ、小さくうなずいた。
俺は白い生地の上へ、そっと唇を触れさせた。
ほんの短い口づけだった。
それでも香織さんの身体は、椅子の上でわずかに震えた。
「……本当に、するのね」
「すみません」
「謝らないで」
香織さんの指が、俺の髪へ触れた。
優しく撫でるような手つきだった。
「嫌じゃないって言ったでしょう」
俺はもう一度、白い靴下へ唇を重ねた。
今度はすぐに離れなかった。
生地越しの温度を感じながら、足の甲へ静かに口づける。
香織さんの手が、俺の髪を少しだけ強くつかんだ。
「悠真君……」
名前を呼ぶ声が、いつもの香織さんとは違っていた。
甘く、かすかに震えている。
俺が顔を上げると、彼女の頬は赤く染まっていた。
「こんなことをされると、普通に仕事できなくなるわ」
「俺は、もうできていません」
「知ってる」
香織さんは足を床へ戻すと、俺の頬へ手を添えた。
薬指の結婚指輪が肌に触れる。
俺はその手を拒めなかった。
「白い靴下から始まるなんて、悠真君らしいわね」
「変ですか」
「少しだけ」
香織さんが微笑んだ。
「でも、嫌いじゃない」
俺は立ち上がり、椅子に座る香織さんと向き合った。
近い。
彼女の吐息が届くほど近くに、大人の女性の顔がある。
「香織さん」
「なに?」
「キスしてもいいですか」
香織さんの笑顔が消えた。
真剣な目で俺を見つめている。
「その質問に答えたら、私たち、もう元の関係には戻れないわよ」
「戻りたくありません」
香織さんはしばらく黙っていた。
やがて、俺の作業着の胸元を指先でつかんだ。
そして自分から、ゆっくり顔を近づけてきた。
唇が触れる。
最初は確かめるような、短いキスだった。
一度離れたあと、香織さんは俺の目を見た。
俺が動かずにいると、今度は彼女のほうから唇を重ねてきた。
さっきよりも長く、深いキスだった。
俺は香織さんの背中へ腕を回した。
えんじ色のエプロン越しに感じる、大人の女性の身体。
彼女の両手も俺の背中へ回り、離れないように服をつかんだ。
椅子の前には、脱いだ黒いスリッポンが二足そろっている。
白い靴下に包まれた両足が、俺の足元へ触れていた。
誰もいない閉店後のバックヤード。
聞こえるのは冷蔵設備の音と、二人の乱れた呼吸だけだった。
どれほどそうしていたのか分からない。
突然、遠くの扉が閉まる音が響いた。
俺たちは同時に身体を離した。
「警備の人かもしれない」
香織さんはそう言いながら、慌てて黒いスリッポンへ足を入れた。
右足、左足。
白い靴下が靴の中へ隠れていく。
それまでの出来事が夢だったように、いつもの仕事姿へ戻っていく。
けれど、赤くなった頬と潤んだ目だけは、元には戻っていなかった。
「悠真君」
「はい」
「今日のことは、誰にも言わないで」
「言いません」
「それから……」
香織さんはエプロンの乱れを直しながら、俺を見た。
「今度は、もう少しゆっくりできる場所がいいわね」
そう言って、彼女は先にバックヤードを出ていった。
一人残された俺の手には、まだ白い靴下越しの温度が残っていた。
唇にも、香織さんへ触れた感触が残っている。
俺たちはもう、ただのパート仲間には戻れない。
そして俺は、それを少しも後悔していなかった。
※本作品はフィクションです。登場人物はすべて20歳以上です。


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